2009/06/22 鈴木邦男

『銃口』は誰に向けられていたのか

①「御大葬の歌」があったんだ

三浦綾子『銃口』(小学館)
三浦綾子『銃口』(小学館)

 エッと思った。大正天皇が崩御された時、「御大葬の歌」が作られ、学校で歌われたという。知らなかった。小説だからといって、これはフィクションではないだろう。三浦綾子の『銃口』(小学館)の初めの方に出てくる。主人公の竜太は小学校の3年生だ。級長だ。御大葬の日のことを生徒は書かされる。これだけ悲しかったと子供たちは各々、書いて出す。竜太は足が冷たかったが、御大葬の日なのだから、そんなことを言ってられない。とても悲しい。と、感覚論的な視点から悲しみを表現した。

〈ぼくは、天皇陛下がお隠れになったのだから、冷たいぐらいがまんしようと思いました。校長先生のお話がありました。ぼくは足ばかり気にしてました。みんなで、大きな声で、御大葬の歌をうたいました。『地にひれ伏して天地に 祈りしまこといれられず 日出ずる国の国民(くにたみ)は あやめもわかぬ闇路ゆく』という歌でした。悲しそうな歌でした。ぼくは御大葬の日を思うと、今でも足が冷たくなります。でも御大葬の日を思って、これからもぼくは勉強して行きます〉

 ところが先生に怒鳴られる。「これが三年二組の級長の綴り方かっ!」
 そして、いきなり往復ビンタをされる。「万世一系の天皇陛下が崩御されたのに、お前は足が冷たいだけか。先生は恥ずかしいぞ。今日、残って書き直せ。こんなものを職員室に持っていくわけにはいかん」
 個人的な体験、感覚を入れた方が、悲しみがより伝わると竜太少年は思ったのかもしれない。しかし、教師に殴られた。 次に副級長の楠夫が指名されて読む。名前からして忠臣だ。どう書いたら誉められるか。空気を読める少年だ。こう書いている。

劇団「青年劇場」による『銃口』の公演
劇団「青年劇場」による『銃口』の公演
〈ぼくは大正天皇がお隠れになったと聞いた時、心臓のつぶれる思いがしました。天皇陛下は、日本で一番偉いお方です。国民の父親なのです。そしてぼくたちをわが子のように、かわいがって下さるのだと先生が言いました。
 御大葬の日、雪が降っていました。ぼくは竜太君といっしょに、悲しいのをがまんして学校に行きました。式の時、校長先生は、これで大正天皇とはお別れになりますと言われました。御大葬の歌をうたう時も、悲しくて涙がこぼれそうになりました。でも、ぼくは日本男児だから、泣いてはならないとがまんしました。
 ああもう、大正天皇陛下はこの世にはおられません。でも摂政宮が新しい天皇陛下になって、ぼくたちをかわいがってくださいます。ぼくたちは安心して、昭和の時代を生きていけばいいのだと、お父さんが言いました。ご大葬の日は、自分の親がおかくれになったように悲しかったです〉
 

 「うん、よし! 副級長のほうが立派だ。みんな、楠夫のほうが立派な綴り方だな」と先生が言う。
 「それはそうと楠夫。自分の親が死んだ時に、おかくれになったとは使わんぞ。覚えておけ」と、一言たしなめた。
 もう一言いうならば、ご大葬の時は、大正天皇とは言わない。天皇は、いつの世も一人だ。代がかわってから、あの時代の天皇は大正天皇といわれるようになったのだ。ただ、三浦綾子さんもそんなことは知っていたが、読者に分かりやすいようにそうした表現をしたのだろう。

②「一度きりの歌」だったのか

三浦綾子
三浦綾子

 しかし、小学校3年で楠夫のような立派な綴り方が書けるのだろうか。私ならとても書けない。竜太のように殴られていただろう。
 それよりも、「御大葬の歌」に驚いたのだ。知らなかった。でも、この小説では何度も出てくるから嘘ではないだろう。
 この3年後だ。竜太たちは6年生になっていた。昭和の御代が始まって3年目だ。ある日、生徒たちは用事があって学校に行く。夕方だ。暗い。その時、一人の生徒が言った。
 「暗いなあ。あやめもわかぬ闇路ゆくって、こんなのかな」
 あやめ(文目)とは、「模様。物事の道理。筋道。物事の区別」だ。だから、闇の中で全く見えないことを「あやめもわかぬ闇路ゆく」と言ったのだ。

『「憂国」と「革命」の日本史』(宝島社)
『「憂国」と「革命」の日本史』(宝島社)
〈その声に、誰うたうともなくうたい出した。
 地にひれ伏して 天地(あめつち)に
 祈りしまこと いれられず
 日出ずる国の 国民(くにたみ)は
 あやめもわかぬ 闇路ゆく
三年前にうたつた歌だが、猛勉強をして覚えた歌だ。みんな一字一句間違えずに覚えている。竜太は、足袋が雪に濡れて冷たかったあの大葬の日を思い浮かべた。みんな声を合わせてうたいながら、廊下にさしかかった〉

 そこに河地先生が来て、いきなり怒鳴られた。なぜ怒鳴られたのか生徒は分からない。河地先生は言う。

〈「わしはあの歌を教えた時、言った筈だ。厳重に注意した筈だ。この歌は一度っきりの歌だ。二度とうたってはいけないと言った筈だ。この歌はおもしろ半分にうたえる歌か。鼻歌まじりにうたえる歌か。畏れ多くも、今上天皇陛下はお健やかにあらせられる。然(しか)るにだ。今、その歌をうたうとは何事だ」
 「……」
 「六年生になりながら、尊い皇室のことを何と心得ている。全員ここに、これから一時間立っていろ。そして先生のいうことが間違っているか、それともお前たちが悪いか、よっく胸に手を当てて考えてみろ」〉
『「憂国」と「革命」の日本史』(宝島社)
『「憂国」と「革命」の日本史』(宝島社)

 そうか。「一度っきり」の歌なんだ。だから、その後、ラジオでもテレビでも流れない。だから僕らは全く知らない。それにしても戦前・戦中の日本は大変だな。小学生でもこんな思想的大問題を毎日、考えなくてはならん。戦後に生まれてよかったな。私なんて、小学校、中学校と、日本に天皇がおることも知らんかった。昔だったら大変だよ。「不敬だ!」「不忠だ!」といって毎日、殴られていたよ。
 この小説『銃口』の主人公・竜太君は素直な生徒だ。皆と同じように、天皇陛下を尊崇している。ただ、要領が悪いし、表現が下手だから、3年生の御大葬の時、「足が冷たかった」と書いて教師に殴られる。6年生でも、「御大葬の歌」をつい、口ずさんで、怒鳴られる。でも、ゴチゴチの尊皇主義の河地先生に怒鳴られながらも、納得する。

〈竜太は、なるほど河地先生の言った言葉に一理あると思った。しかし、うたった自分たちの気持ちの中には、何の悪意もないのだ。確かに言われてみれば、不謹慎なことであった。なるほど日本人たる者、河地先生のように、皇室を尊ぶ忠義の民でなければならないのだ。竜太は素直にそう思った。河地先生の憎々しげな語調が腹立たしかった。しかも、坂部先生の名を言う時の河地先生の語調には、仇(かたき)の名でも口に出すような底意地の悪さが感じられた。それがいやだった〉

③覚悟を持って、〈時代〉に耐えられるか

孫崎亨先生(右から2人目)と一緒に(一水会フォーラム6/15)
孫崎亨先生(右から2人目)と一緒に(一水会フォーラム6/15)

 坂部先生というのは6年の担任で、ちょっとリベラルな先生だ。リベラルといっても、皇室は尊崇する。これは当時の常識だ。いわゆる「アカ」ではない。でも、こうした先生すらも、どんどん監視され、弾圧され、検挙されてゆく。この後、坂部先生は、「綴り方事件」に巻き込まれ、逮捕され、拷問され、虐殺される。そんなことが多かったのだろう。竜太は坂部先生に憧れて、又、坂部先生のような正義感の強い、子供のことを考える先生になりたいと思い、教師を目指す。そんな竜太も、あることから、警察に捕まる。そして出てきたら赤紙がきて、大陸へと渡る。激動の人生が始まる。
 この小説は上下2巻だ。感動的な本だ。そして、国家とは何か。天皇制とは何かを考えさせる。著者・三浦は、あえて、そうしたテーマを口にするわけではないが、私は考えた。三浦は逆境の時代に、どこまで人間は人間らしく生きられるか。人間とは何か。愛とは何か。そうしたことを突き詰めてゆく。しかし、国家や天皇制は避けて通れない。又、時代の空気が極端な方向に行くと、それに乗って、威張り散らす人間がいる。大勢に添ったことを言ってれば、自分は「正義」だ。何をしてもいい。弱い人間を怒鳴り、殴り、時には(警察のように)殺してもいい。そんな時こそ、人間の本質があらわになる。「人間の本質に迫る三浦文学の最高傑作」と帯には書かれている。
 「上巻」では、さらにこう書かれている。

〈北海道の雄大な自然に育まれた竜太と芳子の青春と愛。だが、希望に燃える若き教師たちの上に戦争の暗雲がのしかかる〉
(左より)木村三浩氏、鳥海茂太氏、鈴木邦男(6/16)
(左より)木村三浩氏、鳥海茂太氏、鈴木邦男(6/16)

 「下巻」では、

〈とつぜんの拘留、応召から満州へ。そして敗戦。過酷な運命に翻弄されながらも人間らしく生きぬく竜太をめぐる人間ドラマ〉

 そして、「昭和を生きたすべての人へ!」と書かれている。
 ちょっと先走りしすぎた。戻る。「暗いなあ。あやめもわかぬ闇路ゆくって、こんなのかな」と1人が喋り、つられて皆が、「御大葬の歌」をつい歌ってしまう。そりゃ、歌うだろうよ。二度と歌っちゃいけないということが理不尽だ。だったら、教えなければいい。
 私も思い出した。昭和が終わろうとする時だった。結構、天皇の戦争責任について発言する人もいた。ある集会で、「てん、てん、てんのう、何になる…」と歌ってる人がいた。それをテレビで報じていた。このテレビ局も勇気がある。この歌は、「てん、てん、てんマリ、どこへゆく」という童謡にかけて歌っていたんだ。リズムというか調子がいい歌だ。何だ、これは、と反撥しながらも、ずっと耳に残っていた。そして、右翼の人たちと酒を飲んでる時、つい、「てん、てん、てんのう、何になる」と口をついて出た。焦りましたね。皆に批判されましたよ。現代の「河地先生」たちに怒鳴られた。気をつけよう、と思った。だから、竜太君は、他人とは思えん。
 河地先生に叱られ、「一時間、立ってろ!」と言われた時、偶然に坂部先生が通りがかる。事情を聞いて、謝る。
 『銃口』に戻る。「河地先生、生徒たちが悪いのではありません。わたしの指導が悪いのです。明日、よく言って聞かせますので、今日は返してあげて下さい。ここでは寒いですし、そうでなくても今日は、帰宅時間が遅れています。河地先生、父兄も心配すると思います」

 ここまで覚悟を持った、責任感の強い先生は少ない。普通なら、自己保身を考える。自分が担任なら、なおさらそうだ。いきなり生徒を並ばせ、ビンタを張り、「いつも私が教えているじゃないか。何という不謹慎なことをしたのだ。河地先生に謝れ。1時間じゃない。2時間立っておれ!」と言うだろう。時代の空気を読み、自分だけ、いい子になろうとする。そうすると、次の日、河地先生は職員室で言うだろう。「坂部先生は、リベラルで、尊皇心が足りないと思ってたら、違いましたね。見直しました。心得違いをした生徒を殴り飛ばしたんですから」と。

④「戦争柄」には驚いた。戦争までデザインにする

河合塾越コスモの「社会問題ゼミ」に呼ばれた(6/16)
河合塾越コスモの「社会問題ゼミ」に呼ばれた(6/16)

 時代の空気に便乗する方が楽だ。人に批判もされないし。でも、坂部先生は、そうはしない。あえて、苦難の道を行く。悪いのは生徒ではない。私だ。私を罰してくれ!と。こうした気持ちこそ、むしろ天皇の御心ではないのか。戦後、マッカーサーを訪ねて、天皇は、「責任は私1人にある。私を罰してくれ。国民を助けてくれ」と言われた。
 坂部先生だって同じだ。でも、「皇室主義者」の河地先生は許さない。すると、坂部先生は、ガバと土下座して、謝る。生徒もビックリして、土下座する。泣きながら謝る。そこまでやられたら河地先生も「わかった」と言うしかない。
 しかし、当時、無数の「河地先生」が日本にいたのだ。虎の威を借るキツネだ。そして、こういう人に限って、戦後、いち早く変身・転向し、「民主主義万歳」を唱え、生徒にもそう教えたのだ。つまり、「天皇」でも「民主」でもいい。弱者たる生徒に対し、威張れるものがあればいいのだ。

河合塾越コスモの「社会問題ゼミ」に呼ばれた(6/16)
戦争中に作られた着物の柄

 この前、NHKのETV特集で、「戦争柄」の特集をやっていた。着物や羽織などに、戦車や日の丸、兵士の姿が描かれている。かわいい中国の子供が日の丸を持って、日本に親愛の情を示している。又、爆弾三勇士の絵がある。それを又、人間ではなく、デザインだけにしている。芸術的だ。全く知らなかったので、興味深く見た。やはりNHKは凄いよ。そして、この「戦争柄」は戦後まで続く。何と、かわいい子供がGI(米兵)の格好をして、ジープに乗っている。ゲッと思って、やめてくれよ!と思った。

 さて、再び『銃口』だ。河地先生と坂部先生の確執は続く。河地先生はある時、坂部先生に聞く。

「君、キリスト教会に行ってるそうじゃないか。日本精神とキリスト教とは、相容れないのじゃないのかね」

 この手の質問は戦争中、さんざんされた。キリスト教徒を苛め、弾圧するためだ。八紘一宇だといい、日本の神々は八百万(やおよろず)の神だといってたのに、何とも小さいことを言う人たちだ。こうしたいやがらせに対し、坂部先生は答える。

〈「日本精神とは何を指すのかわかりませんが、明治天皇の御製に、
四方の海皆同胞(はらから)と思ふ世に
など浪風の立ち騒ぐらん
 とあります。聖書には『汝の敵を愛せよ』とあります。どこの国の人をも愛するキリスト教の精神と明治天皇の御製の精神とは、同じではないでしょうか〉
河合塾越コスモの「社会問題ゼミ」に呼ばれた(6/16)
河合塾越コスモの「社会問題ゼミ」に呼ばれた(6/16)

 その通りだと思う。あえて敵を作らないのが、日本精神だと私も思う。キリスト教、仏教、儒教も取り入れ、咀嚼した。それが日本精神ではないか。他の国では、こうした場合、血で血を洗う宗教戦争になっている。日本では、そうならなかったのは、寛容な日本精神があったからだと思う。ところが河地先生は、あえて、平地に乱を起こそうとする。違いを見つけ、〈敵〉を見つけようとする。坂部先生のこの返事を聞いても、こう嫌味を言うのだ。

〈河地先生は腕を組んで坂部先生を見据えていたが、
 「なるほど、人に聞かれたら、そう答えよと教会で言っているわけだ」と、皮肉を浴びせたのだった〉

 この『銃口』は、読んでいて、何度も目頭が熱くなった。こんな時、自分ならどうするだろう。坂部先生や竜太のように、人に優しく、勇気を持って生きられるだろうか。考えた。自分なら、大勢につき、楽に生きようとするんじゃないか。勇気を持てないんじゃないか。そう思った。その意味で、三浦綾子の小説は、人生を考えさせられるテキストだ。
 三浦の最高傑作は『氷点』だ。他に、『ひつじが丘』『塩狩峠』『天北原野』『細川ガラシャ夫人』『海嶺』などがある。又、『母』もある。小林多喜二の母が、多喜二について語る小説だ。これも感動的な本で、私も、『「蟹工船」を読み解く』の中で、詳しく紹介した。三浦文学はかなり読んでるつもりだが、読んでないのもある。全巻読破しよう。

⑤「オレこそ日本だ!」と皆、思うんだろうね

靴下が破れてるよ、と思ったが
靴下が破れてるよ、と思ったが

 この『銃口』の下巻について、ちょっと触れる。戦争が始まり、日本中は狂喜した。これは事実だ。人が集まると、どこでも、「やりますなあ、日本も」「いや、全く凄いもんだ」と口々に言う。長い間の暗雲が晴れた気分だろう。自分が〈日本〉そのものになった気分で、「どうだ、見たか!」と思った人もいたのだろう。そうした時代の気分を三浦は、こう描写している。なるほどと私は思った。

〈「街を行く人の顔が変わりましたな」
 「そうそう、みんな目が輝いている。肩で風を切ってますよ」
 いつもは借りてきた猫のように、隅の方でおとなしくしている男が、珍しく大きな声で言った。一同はちょっと驚いたふうだったが、一人が受けて、
 「そりゃあそうですとも。日本は地図で見たらどこにあるのかわからんような、小さな国ですよ。それがアメリカのような大国を相手に、最初からあんな大きな戦果を上げたんですからね」
 「そうですよ。日本は神髄を発揮しましたよ。日本という国の底力に、敵も震え上がったんじゃないですかね」
 「震え上がりましたとも。何しろ日本という国は、ちょんまげを切ったか切らんうちに、支那という大きな国と戦った。その十年後には大ロシアに勝った。そして今度の赫々(かっかく)たる戦果ですからな」
 借りて来た猫のような男が、またも大声で語る〉

 当時の興奮状態が分かるようだ。借りてきた猫までが、大声で語り合うのだ。皆、浮かれている。大喜びしている。そして、こう言い出す者もいる。

「FRIDAY」(6/26号)
「FRIDAY」(6/26号)
 「とにかくこうなりゃあ、勝利は日本のものですよ。やっぱり日本は神国だ。八百万(やおよろず)の神がついている。いざとなれば神風が吹く。国民は誰しも天佑神助を信じている。仮にどんな苦境におちいっても大丈夫です」

 そう思わせるほど、緒戦の勝利に次ぐ勝利は大きかったのだ。そして、どうなったか。それは書くまでもないだろう。
 では終わり。と思ったが、大事にことを忘れていた。大正天皇が崩御された時のご大葬の時の歌だ。いろんな人に聞いたが分からない。「お子さまが生まれた」とか「ご成婚」とか、お目出度い時には歌は作られている。しかし、悲しむ歌なんてないだろう。という人が多い。でも、三浦綾子はフィクションで書いたわけじゃないだろう、と思い、ネットで調べてみた。あった!驚いた。本当に、悲しみの歌が作られていたのだ。正式には「大行天皇奉悼歌」という。やはり、「大正天皇」という言葉は使っていない。「大行天皇」といわれる。歌の「解説」によればこうだ。

〈大正15年12月25日、大正天皇が崩御された。この歌は、翌年2月の奉葬の儀の際、歌われた。なお、当初、最初の2行は、「日の本の國 日隠りて 國の中(うち)みな常夜行く」であった。また、3番は長すぎると言う理由で歌われなかった〉
車を降りたエコ大将
車を降りたエコ大将

 これから、その歌を紹介する。確かに、当初の原文では、暗すぎる。大行天皇の崩御を悲しむだけでなく、この日本そのものが終わり、のような感じがする。「日の本の國 日隠りて」では、そうなる。だから、直されたのだろう。竜太君たちを叱れないな。悲しみをどう表していいか、大人たちだって迷ったのだ。
 3番が「長すぎる」というが、「八洲をおほふ 禍事を」が、ひっかかったのではないか。大行天皇の崩御は悲しい。でも日本は神国だ。そして、新しい天皇陛下がこの日本の親になられる。そうした絶対、不動の安心だ。その上での「悲しみ」だ。それなのに「禍事」はないだろう。そう思われたのだろう。作詞した人も大いに苦労しただろう。

 大行天皇奉悼歌
 芳賀矢一 作詞  東京音楽学校 作曲
地にひれ伏して 天地(あめつち)に
祈りし誠 容れられず
日出ずる国の 国民(くにたみ)は
 あやめもわかぬ 闇路行く
大葬(おほみはぶり)の 今日の日に
流るゝ涙 果てもなし
如月の空 春淺み
寒風(さむかぜ)いとど 身には沁む
おん痛はしさ 慕はしさ
しげき思ひに 言葉なし
八洲(やしま)をおほふ 禍事(まがいごと)を
科戸(しなど)の神よ 払へ疾(と)く
【だいありー】
月刊TIMES7月号
月刊TIMES7月号
  1. 6月15日(月)大正天皇の崩御と奉悼歌のことを考えていたら、私も悲しみで胸が一杯になり、熱まで出た。頭がガンガンする。夜中、びっしょり汗をかき、何度も着替えた。前夜からずっと寝ていた。一日中、寝ていた。一水会フォーラムに行かなくちゃと思い、やっと夕方、立ち上がる。
     先週、谷口雅春先生の『生命の実相』(全40巻)を読破した。学生の時に、3回、読破した。そのあと1回、読破し、5回目だ。それと、『明窓浄机』(全6巻)を読破した。「病気はない」と真理を悟ったはずなのに、だらしがない。一気に集中して読み、学んだせいで、「知恵熱」が出たのかもしれない。今日、私の新しい本が出る日だが、明日から書店に並ぶようだ。自分では、自分の気持ちに素直に、真剣に考えて書いたつもりだ。でも、皆に批判されるだろう。この暗い道を、一人だけで歩んでゆく。「あやめもわかぬ 闇路ゆく」だなと、つい口ずさんだ。「許せん! 不敬だ!」と河地先生にいきなり怒鳴られ、殴られた。(この歌の入ったオムニバスCDを1万5千円で買った。悲痛な歌だ。でも、竜太君と同じように、つい、「あやめもわかぬ…」と口ずさんでしまう。不敬、不忠な私です。殴られて当然です。
     夜、7時から一水会フォーラム。高田馬場サンルートホテル。今売れている『日米同盟の正体』(講談社現代新書)の著者・孫崎亨さんが講師。私と同じ年だ。1943年7月19日生まれ。私は8月2日だ。さすが外交の現場に長くいた人だ。話も詳しいし、リアルだ。超満員だった。
  2. 6月16日(火)午前中、原稿書き。午後3時、一水会事務局へ。鳥海茂太さんが米沢から上京したのだ。木村三浩氏らと会う。30年以上前に、米沢で「新しい日本を創る青年集会」運動をスタートさせた。三上卓さん(5.15事件のリーダー)の門下生だった鳥海さんと野村秋介さんが中心になって我々若者に呼びかけたのだ。(当時は、私も若者だった)。この時、鳥海さんは米沢の市議会議員。それで地元でも信頼があるし、集会は大成功。それから仙台、福島、会津若松…と東北各地で演説会、合宿をやった。最近、亡くなった太田竜さんも講師で来てくれていた。
     鳥海さんは昭和8年生まれで現在76才。とても元気だ。今年の5月19日に、長年の地方政治への功労もあって、皇居豊明殿で天皇陛下から「旭日小綬章」を叙勲された。おめでたいことだ。それに、今年4月には、息子(市議会議員)と共にイランに行き、向こうのラジオに出たり、議員との交流をはかった。そうした話を詳しく聞いた。  午後5時から河合塾コスモ。柴田先生の社会問題ゼミに呼ばれて、「日本の右翼と左翼」の話をする。1776年のアメリカ独立戦争から始まって現代までの話をする。その後、質疑応答。生徒がドッとつめかけ、質問もシビアーで、タジタジとなった。他の先生たちも多数参加し、エキサイティングなゼミになった。
     ビッグなニュースだ。7月13日(月)、あの「金正日の料理人」が一水会フォーラムに来ることが決定! これは凄い!
  3. 6月17日(水)又、図書館から催促されて、あわてて返しに行く。午後から取材と対談。やっと、カゼも治ったようだ。いかんな、弱い体だ。
     「ミサワさんが死んだ!」と泣き声で電話してきた。誰か知らんが、知らん人からよくかかってくる。4年前に自殺した。と思われていたが、本当は骨折だけで助かって病院にいた。その「証拠写真」がどっかに載っていた。でも、又、病院で自殺したのか。かわいそうに。そう思ってたら、「三沢光晴」のことだった。プロレスラーだ。試合中に死んだ。私も好きなレスラーだったのに残念だ。2人のミサワの死を悼んで、痛飲した。
  4. 6月18日(木)昼、打ち合わせ。3時、河合塾コスモ。「現代文要約」。5時、「基礎教養ゼミ」。今週は牧野剛先生の選んだ本。森浩一・網野好彦『日本史への挑戦=「関東学」の創造をめざして』(大巧社)だ。なかなか面白い本だった。私は途中で中座して根津に。根津駅前の「忍ばず通りふれあい館」B1ホールで、7時から、映画「実録・連合赤軍」についてのトークショー。若松孝二、足立正生、パトリシア・スタインホフさん(ハワイ大学教授)、そして私。なかなか、刺激的なトークになった。終わって二次会。東アジア反日武装戦線「さそり」の宇賀神さんに久しぶりに会う。21年も獄中にいた人だ。又、赤軍派の金廣志さんに会う。時効15年を逃げ切った人だ。凄い。
  5. 6月19日(金)昼、対談。夜7時、高田馬場。ジャナ専(日本ジャーナリスト専門学校)の卒業生の飲み会。そこにダメ講師の私も呼んでもらった。感動です。上野昂志先生にも会いました。
     卒業して、皆、頑張ってる。先生も嬉しいよ。「先生は今、授業を何コマもってるんですか?」と聞かれた。「今年は前期はないんだよ。無能だから。後期にお願いしますって言われてるけど」。でも、後期もないかもしんない。このまま、クビかな。自分では一生懸命やってるつもりだけど、無能だからな。無能教師は去れ、だよな。そんで、ヤケ酒になりました。
  6. 6月20日(土)取材。原稿。
  7. 6月21日(日)朝10時半から夕方5時まで、『無門関解釈』の勉強会。とても勉強になりました。
【写真説明】

①三浦綾子の『銃口』(小学館)です。感動的な本です。何度も涙が出て、止まりませんでした。こんなに勇気を持って、真摯に生きられるのか。考えさせられました。

②劇団「青年劇場」による『銃口』の公演です。2005年です。国内だけでなく、韓国でも公演されました。

③『銃口』の作者。三浦綾子さんです。

④⑤『「憂国」と「革命」の日本史』(宝島社)が、全国のコンビニで発売されてます。5万部です。木村三浩氏や私も書いてます。

⑥6月15日(月)、一水会フォーラムが終わって、打ち上げの時です。孫崎亨先生(右から2人目)と一緒に撮りました。

⑦6月16日(火)、山形県米沢の鳥海茂太さん(元・市議会議員)が一水会事務所に来られました。叙勲の話や、イランの話を聞きました。

⑧⑨6月16日(火)鳥海さんと会った後、河合塾コスモに行きました。「社会問題ゼミ」で「日本の右翼と左翼」の話をしました。厳しい質問が出て、大変でした。

⑩靴下が破れてる生徒がいました。かわいそうに。でも僕らが子供の頃は、こんな子が一杯いたよな。と思ったら、破けて指が出てるんじゃない。一つ一つが模様なんだ。熊や犬や、キノコなんかだ。

⑪『FRIDAY』(6月26日号)。〈NHK連続テロは「赤報隊の犯行なのか」〉。容疑者として取材されたので、素直に自供しました。

⑫6月13日(土)、カレー事件の弁護団会議に行ってきました。大阪です。地下鉄の駅に、面白いポスターがあった。
「車を降りたエコ大将」
地球に優しく、あの娘に優しく
「電車にバス、これがオイラの新車だぜ!」
 いいねー。昔、「若大将シリーズ」があったね。それにかけたんだろう。私だってエコ大将だ。

【お知らせ】
  1. 『月刊TIMES』(7月号)発売中。見沢知廉氏の「スパイ査問事件」について書きました。今だから書けると思ったのです。当時、「共犯」として逮捕され10年間獄中にいた設楽秀行氏に〈事件〉の背景、詳細な内容を聞きました。
  2. 原武史さんの『政治思想の現在』(河出書房新社・1600円)が発売中です。明治学院大学で原さんが行った「公開セミナー」をまとめたものです。雨宮処凛、福田和也、中島岳志さんなど8人です。私も入ってます。「戦後日本の右翼」について話しました。
  3. 7月11日(土)ポレポレ東中野で「台湾人生」上映後、昼12時から酒井充子監督とトークです。とてもいい映画で、「ここにこそ日本がある」と思いました。楽しみです。「台湾人生」は6月27日よりポレポレ東中野でモーニングショーです。
  4. 7月13日(月)何と、あの「金正日の料理人」藤本健二さんが一水会フォーラムに来ます! 7時、高田馬場サンルートホテルです。「後継者は三男の金正雲氏だ!」と発表した人だ。まさにその通りになった。藤本氏は金正日さんの料理人だった。そして金正雲さんとも仲がいい。凄い話が聞けるだろう。
  5. 7月19日(日)1時、大阪御堂会館。和歌山カレー事件最高裁判決について、辛淑玉さんが語ります。「あの判決って、やっぱりヘン!」。安田弁護士も話します。私も参加します。
  6. 8月4日(火)7時。阿佐ケ谷ロフトに出ます。「映画と革命」のイベントです。
  7. 8月21日(金)〜23日(日)。劇団再生の主催で「見沢知廉生誕50年展」が行われる。「天皇ごっこ〜調律の帝国」の舞台化。そして、トークライブとして高木尋士氏と私の「死後に成長する命・言葉・人生」があります。お楽しみに。この日、50才で誕生した見沢氏は、これから、どんどん若くなって、さらに多くの可能性に挑戦するのでしょう。
     トークには、現在、映画『見沢知廉』を撮っている大浦信行監督も3回共、参加することになりました。ご期待下さい。見沢氏本人も特別出演するかもしれません。
  8. 9月12日(土)午後2時。新潟県新発田市生涯学習センターで講演。「大杉栄と小林多喜二」です。
  9. 9月28日(月)午後7時、Parc自由学校で講演します。「天皇制と民主主義」です。
    「Parc自由学校 2009」の受講案内のパンフレットが送られてきた。「連帯のための哲学=生きる場のことばと実践から」のコーナーで私は講義します。パンフレットには、私の「天皇と民主主義」の講義の紹介が書かれている。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉