エッと思った。大正天皇が崩御された時、「御大葬の歌」が作られ、学校で歌われたという。知らなかった。小説だからといって、これはフィクションではないだろう。三浦綾子の『銃口』(小学館)の初めの方に出てくる。主人公の竜太は小学校の3年生だ。級長だ。御大葬の日のことを生徒は書かされる。これだけ悲しかったと子供たちは各々、書いて出す。竜太は足が冷たかったが、御大葬の日なのだから、そんなことを言ってられない。とても悲しい。と、感覚論的な視点から悲しみを表現した。
〈ぼくは、天皇陛下がお隠れになったのだから、冷たいぐらいがまんしようと思いました。校長先生のお話がありました。ぼくは足ばかり気にしてました。みんなで、大きな声で、御大葬の歌をうたいました。『地にひれ伏して天地に 祈りしまこといれられず 日出ずる国の国民(くにたみ)は あやめもわかぬ闇路ゆく』という歌でした。悲しそうな歌でした。ぼくは御大葬の日を思うと、今でも足が冷たくなります。でも御大葬の日を思って、これからもぼくは勉強して行きます〉
ところが先生に怒鳴られる。「これが三年二組の級長の綴り方かっ!」
そして、いきなり往復ビンタをされる。「万世一系の天皇陛下が崩御されたのに、お前は足が冷たいだけか。先生は恥ずかしいぞ。今日、残って書き直せ。こんなものを職員室に持っていくわけにはいかん」
個人的な体験、感覚を入れた方が、悲しみがより伝わると竜太少年は思ったのかもしれない。しかし、教師に殴られた。 次に副級長の楠夫が指名されて読む。名前からして忠臣だ。どう書いたら誉められるか。空気を読める少年だ。こう書いている。
〈ぼくは大正天皇がお隠れになったと聞いた時、心臓のつぶれる思いがしました。天皇陛下は、日本で一番偉いお方です。国民の父親なのです。そしてぼくたちをわが子のように、かわいがって下さるのだと先生が言いました。
御大葬の日、雪が降っていました。ぼくは竜太君といっしょに、悲しいのをがまんして学校に行きました。式の時、校長先生は、これで大正天皇とはお別れになりますと言われました。御大葬の歌をうたう時も、悲しくて涙がこぼれそうになりました。でも、ぼくは日本男児だから、泣いてはならないとがまんしました。
ああもう、大正天皇陛下はこの世にはおられません。でも摂政宮が新しい天皇陛下になって、ぼくたちをかわいがってくださいます。ぼくたちは安心して、昭和の時代を生きていけばいいのだと、お父さんが言いました。ご大葬の日は、自分の親がおかくれになったように悲しかったです〉
「うん、よし! 副級長のほうが立派だ。みんな、楠夫のほうが立派な綴り方だな」と先生が言う。
「それはそうと楠夫。自分の親が死んだ時に、おかくれになったとは使わんぞ。覚えておけ」と、一言たしなめた。
もう一言いうならば、ご大葬の時は、大正天皇とは言わない。天皇は、いつの世も一人だ。代がかわってから、あの時代の天皇は大正天皇といわれるようになったのだ。ただ、三浦綾子さんもそんなことは知っていたが、読者に分かりやすいようにそうした表現をしたのだろう。
しかし、小学校3年で楠夫のような立派な綴り方が書けるのだろうか。私ならとても書けない。竜太のように殴られていただろう。
それよりも、「御大葬の歌」に驚いたのだ。知らなかった。でも、この小説では何度も出てくるから嘘ではないだろう。
この3年後だ。竜太たちは6年生になっていた。昭和の御代が始まって3年目だ。ある日、生徒たちは用事があって学校に行く。夕方だ。暗い。その時、一人の生徒が言った。
「暗いなあ。あやめもわかぬ闇路ゆくって、こんなのかな」
あやめ(文目)とは、「模様。物事の道理。筋道。物事の区別」だ。だから、闇の中で全く見えないことを「あやめもわかぬ闇路ゆく」と言ったのだ。
〈その声に、誰うたうともなくうたい出した。
地にひれ伏して 天地(あめつち)に
祈りしまこと いれられず
日出ずる国の 国民(くにたみ)は
あやめもわかぬ 闇路ゆく
三年前にうたつた歌だが、猛勉強をして覚えた歌だ。みんな一字一句間違えずに覚えている。竜太は、足袋が雪に濡れて冷たかったあの大葬の日を思い浮かべた。みんな声を合わせてうたいながら、廊下にさしかかった〉
そこに河地先生が来て、いきなり怒鳴られた。なぜ怒鳴られたのか生徒は分からない。河地先生は言う。
〈「わしはあの歌を教えた時、言った筈だ。厳重に注意した筈だ。この歌は一度っきりの歌だ。二度とうたってはいけないと言った筈だ。この歌はおもしろ半分にうたえる歌か。鼻歌まじりにうたえる歌か。畏れ多くも、今上天皇陛下はお健やかにあらせられる。然(しか)るにだ。今、その歌をうたうとは何事だ」
「……」
「六年生になりながら、尊い皇室のことを何と心得ている。全員ここに、これから一時間立っていろ。そして先生のいうことが間違っているか、それともお前たちが悪いか、よっく胸に手を当てて考えてみろ」〉
そうか。「一度っきり」の歌なんだ。だから、その後、ラジオでもテレビでも流れない。だから僕らは全く知らない。それにしても戦前・戦中の日本は大変だな。小学生でもこんな思想的大問題を毎日、考えなくてはならん。戦後に生まれてよかったな。私なんて、小学校、中学校と、日本に天皇がおることも知らんかった。昔だったら大変だよ。「不敬だ!」「不忠だ!」といって毎日、殴られていたよ。
この小説『銃口』の主人公・竜太君は素直な生徒だ。皆と同じように、天皇陛下を尊崇している。ただ、要領が悪いし、表現が下手だから、3年生の御大葬の時、「足が冷たかった」と書いて教師に殴られる。6年生でも、「御大葬の歌」をつい、口ずさんで、怒鳴られる。でも、ゴチゴチの尊皇主義の河地先生に怒鳴られながらも、納得する。
〈竜太は、なるほど河地先生の言った言葉に一理あると思った。しかし、うたった自分たちの気持ちの中には、何の悪意もないのだ。確かに言われてみれば、不謹慎なことであった。なるほど日本人たる者、河地先生のように、皇室を尊ぶ忠義の民でなければならないのだ。竜太は素直にそう思った。河地先生の憎々しげな語調が腹立たしかった。しかも、坂部先生の名を言う時の河地先生の語調には、仇(かたき)の名でも口に出すような底意地の悪さが感じられた。それがいやだった〉
坂部先生というのは6年の担任で、ちょっとリベラルな先生だ。リベラルといっても、皇室は尊崇する。これは当時の常識だ。いわゆる「アカ」ではない。でも、こうした先生すらも、どんどん監視され、弾圧され、検挙されてゆく。この後、坂部先生は、「綴り方事件」に巻き込まれ、逮捕され、拷問され、虐殺される。そんなことが多かったのだろう。竜太は坂部先生に憧れて、又、坂部先生のような正義感の強い、子供のことを考える先生になりたいと思い、教師を目指す。そんな竜太も、あることから、警察に捕まる。そして出てきたら赤紙がきて、大陸へと渡る。激動の人生が始まる。
この小説は上下2巻だ。感動的な本だ。そして、国家とは何か。天皇制とは何かを考えさせる。著者・三浦は、あえて、そうしたテーマを口にするわけではないが、私は考えた。三浦は逆境の時代に、どこまで人間は人間らしく生きられるか。人間とは何か。愛とは何か。そうしたことを突き詰めてゆく。しかし、国家や天皇制は避けて通れない。又、時代の空気が極端な方向に行くと、それに乗って、威張り散らす人間がいる。大勢に添ったことを言ってれば、自分は「正義」だ。何をしてもいい。弱い人間を怒鳴り、殴り、時には(警察のように)殺してもいい。そんな時こそ、人間の本質があらわになる。「人間の本質に迫る三浦文学の最高傑作」と帯には書かれている。
「上巻」では、さらにこう書かれている。
〈北海道の雄大な自然に育まれた竜太と芳子の青春と愛。だが、希望に燃える若き教師たちの上に戦争の暗雲がのしかかる〉
「下巻」では、
〈とつぜんの拘留、応召から満州へ。そして敗戦。過酷な運命に翻弄されながらも人間らしく生きぬく竜太をめぐる人間ドラマ〉
そして、「昭和を生きたすべての人へ!」と書かれている。
ちょっと先走りしすぎた。戻る。「暗いなあ。あやめもわかぬ闇路ゆくって、こんなのかな」と1人が喋り、つられて皆が、「御大葬の歌」をつい歌ってしまう。そりゃ、歌うだろうよ。二度と歌っちゃいけないということが理不尽だ。だったら、教えなければいい。
私も思い出した。昭和が終わろうとする時だった。結構、天皇の戦争責任について発言する人もいた。ある集会で、「てん、てん、てんのう、何になる…」と歌ってる人がいた。それをテレビで報じていた。このテレビ局も勇気がある。この歌は、「てん、てん、てんマリ、どこへゆく」という童謡にかけて歌っていたんだ。リズムというか調子がいい歌だ。何だ、これは、と反撥しながらも、ずっと耳に残っていた。そして、右翼の人たちと酒を飲んでる時、つい、「てん、てん、てんのう、何になる」と口をついて出た。焦りましたね。皆に批判されましたよ。現代の「河地先生」たちに怒鳴られた。気をつけよう、と思った。だから、竜太君は、他人とは思えん。
河地先生に叱られ、「一時間、立ってろ!」と言われた時、偶然に坂部先生が通りがかる。事情を聞いて、謝る。
『銃口』に戻る。「河地先生、生徒たちが悪いのではありません。わたしの指導が悪いのです。明日、よく言って聞かせますので、今日は返してあげて下さい。ここでは寒いですし、そうでなくても今日は、帰宅時間が遅れています。河地先生、父兄も心配すると思います」
ここまで覚悟を持った、責任感の強い先生は少ない。普通なら、自己保身を考える。自分が担任なら、なおさらそうだ。いきなり生徒を並ばせ、ビンタを張り、「いつも私が教えているじゃないか。何という不謹慎なことをしたのだ。河地先生に謝れ。1時間じゃない。2時間立っておれ!」と言うだろう。時代の空気を読み、自分だけ、いい子になろうとする。そうすると、次の日、河地先生は職員室で言うだろう。「坂部先生は、リベラルで、尊皇心が足りないと思ってたら、違いましたね。見直しました。心得違いをした生徒を殴り飛ばしたんですから」と。
時代の空気に便乗する方が楽だ。人に批判もされないし。でも、坂部先生は、そうはしない。あえて、苦難の道を行く。悪いのは生徒ではない。私だ。私を罰してくれ!と。こうした気持ちこそ、むしろ天皇の御心ではないのか。戦後、マッカーサーを訪ねて、天皇は、「責任は私1人にある。私を罰してくれ。国民を助けてくれ」と言われた。
坂部先生だって同じだ。でも、「皇室主義者」の河地先生は許さない。すると、坂部先生は、ガバと土下座して、謝る。生徒もビックリして、土下座する。泣きながら謝る。そこまでやられたら河地先生も「わかった」と言うしかない。
しかし、当時、無数の「河地先生」が日本にいたのだ。虎の威を借るキツネだ。そして、こういう人に限って、戦後、いち早く変身・転向し、「民主主義万歳」を唱え、生徒にもそう教えたのだ。つまり、「天皇」でも「民主」でもいい。弱者たる生徒に対し、威張れるものがあればいいのだ。
この前、NHKのETV特集で、「戦争柄」の特集をやっていた。着物や羽織などに、戦車や日の丸、兵士の姿が描かれている。かわいい中国の子供が日の丸を持って、日本に親愛の情を示している。又、爆弾三勇士の絵がある。それを又、人間ではなく、デザインだけにしている。芸術的だ。全く知らなかったので、興味深く見た。やはりNHKは凄いよ。そして、この「戦争柄」は戦後まで続く。何と、かわいい子供がGI(米兵)の格好をして、ジープに乗っている。ゲッと思って、やめてくれよ!と思った。
さて、再び『銃口』だ。河地先生と坂部先生の確執は続く。河地先生はある時、坂部先生に聞く。
「君、キリスト教会に行ってるそうじゃないか。日本精神とキリスト教とは、相容れないのじゃないのかね」
この手の質問は戦争中、さんざんされた。キリスト教徒を苛め、弾圧するためだ。八紘一宇だといい、日本の神々は八百万(やおよろず)の神だといってたのに、何とも小さいことを言う人たちだ。こうしたいやがらせに対し、坂部先生は答える。
〈「日本精神とは何を指すのかわかりませんが、明治天皇の御製に、
四方の海皆同胞(はらから)と思ふ世に
など浪風の立ち騒ぐらん
とあります。聖書には『汝の敵を愛せよ』とあります。どこの国の人をも愛するキリスト教の精神と明治天皇の御製の精神とは、同じではないでしょうか〉
その通りだと思う。あえて敵を作らないのが、日本精神だと私も思う。キリスト教、仏教、儒教も取り入れ、咀嚼した。それが日本精神ではないか。他の国では、こうした場合、血で血を洗う宗教戦争になっている。日本では、そうならなかったのは、寛容な日本精神があったからだと思う。ところが河地先生は、あえて、平地に乱を起こそうとする。違いを見つけ、〈敵〉を見つけようとする。坂部先生のこの返事を聞いても、こう嫌味を言うのだ。
〈河地先生は腕を組んで坂部先生を見据えていたが、
「なるほど、人に聞かれたら、そう答えよと教会で言っているわけだ」と、皮肉を浴びせたのだった〉
この『銃口』は、読んでいて、何度も目頭が熱くなった。こんな時、自分ならどうするだろう。坂部先生や竜太のように、人に優しく、勇気を持って生きられるだろうか。考えた。自分なら、大勢につき、楽に生きようとするんじゃないか。勇気を持てないんじゃないか。そう思った。その意味で、三浦綾子の小説は、人生を考えさせられるテキストだ。
三浦の最高傑作は『氷点』だ。他に、『ひつじが丘』『塩狩峠』『天北原野』『細川ガラシャ夫人』『海嶺』などがある。又、『母』もある。小林多喜二の母が、多喜二について語る小説だ。これも感動的な本で、私も、『「蟹工船」を読み解く』の中で、詳しく紹介した。三浦文学はかなり読んでるつもりだが、読んでないのもある。全巻読破しよう。
この『銃口』の下巻について、ちょっと触れる。戦争が始まり、日本中は狂喜した。これは事実だ。人が集まると、どこでも、「やりますなあ、日本も」「いや、全く凄いもんだ」と口々に言う。長い間の暗雲が晴れた気分だろう。自分が〈日本〉そのものになった気分で、「どうだ、見たか!」と思った人もいたのだろう。そうした時代の気分を三浦は、こう描写している。なるほどと私は思った。
〈「街を行く人の顔が変わりましたな」
「そうそう、みんな目が輝いている。肩で風を切ってますよ」
いつもは借りてきた猫のように、隅の方でおとなしくしている男が、珍しく大きな声で言った。一同はちょっと驚いたふうだったが、一人が受けて、
「そりゃあそうですとも。日本は地図で見たらどこにあるのかわからんような、小さな国ですよ。それがアメリカのような大国を相手に、最初からあんな大きな戦果を上げたんですからね」
「そうですよ。日本は神髄を発揮しましたよ。日本という国の底力に、敵も震え上がったんじゃないですかね」
「震え上がりましたとも。何しろ日本という国は、ちょんまげを切ったか切らんうちに、支那という大きな国と戦った。その十年後には大ロシアに勝った。そして今度の赫々(かっかく)たる戦果ですからな」
借りて来た猫のような男が、またも大声で語る〉
当時の興奮状態が分かるようだ。借りてきた猫までが、大声で語り合うのだ。皆、浮かれている。大喜びしている。そして、こう言い出す者もいる。
「とにかくこうなりゃあ、勝利は日本のものですよ。やっぱり日本は神国だ。八百万(やおよろず)の神がついている。いざとなれば神風が吹く。国民は誰しも天佑神助を信じている。仮にどんな苦境におちいっても大丈夫です」
そう思わせるほど、緒戦の勝利に次ぐ勝利は大きかったのだ。そして、どうなったか。それは書くまでもないだろう。
では終わり。と思ったが、大事にことを忘れていた。大正天皇が崩御された時のご大葬の時の歌だ。いろんな人に聞いたが分からない。「お子さまが生まれた」とか「ご成婚」とか、お目出度い時には歌は作られている。しかし、悲しむ歌なんてないだろう。という人が多い。でも、三浦綾子はフィクションで書いたわけじゃないだろう、と思い、ネットで調べてみた。あった!驚いた。本当に、悲しみの歌が作られていたのだ。正式には「大行天皇奉悼歌」という。やはり、「大正天皇」という言葉は使っていない。「大行天皇」といわれる。歌の「解説」によればこうだ。
〈大正15年12月25日、大正天皇が崩御された。この歌は、翌年2月の奉葬の儀の際、歌われた。なお、当初、最初の2行は、「日の本の國 日隠りて 國の中(うち)みな常夜行く」であった。また、3番は長すぎると言う理由で歌われなかった〉
これから、その歌を紹介する。確かに、当初の原文では、暗すぎる。大行天皇の崩御を悲しむだけでなく、この日本そのものが終わり、のような感じがする。「日の本の國 日隠りて」では、そうなる。だから、直されたのだろう。竜太君たちを叱れないな。悲しみをどう表していいか、大人たちだって迷ったのだ。
3番が「長すぎる」というが、「八洲をおほふ 禍事を」が、ひっかかったのではないか。大行天皇の崩御は悲しい。でも日本は神国だ。そして、新しい天皇陛下がこの日本の親になられる。そうした絶対、不動の安心だ。その上での「悲しみ」だ。それなのに「禍事」はないだろう。そう思われたのだろう。作詞した人も大いに苦労しただろう。
大行天皇奉悼歌
芳賀矢一 作詞 東京音楽学校 作曲
地にひれ伏して 天地(あめつち)に
祈りし誠 容れられず
日出ずる国の 国民(くにたみ)は
あやめもわかぬ 闇路行く
大葬(おほみはぶり)の 今日の日に
流るゝ涙 果てもなし
如月の空 春淺み
寒風(さむかぜ)いとど 身には沁む
おん痛はしさ 慕はしさ
しげき思ひに 言葉なし
八洲(やしま)をおほふ 禍事(まがいごと)を
科戸(しなど)の神よ 払へ疾(と)く
⑫6月13日(土)、カレー事件の弁護団会議に行ってきました。大阪です。地下鉄の駅に、面白いポスターがあった。
「車を降りたエコ大将」
地球に優しく、あの娘に優しく
「電車にバス、これがオイラの新車だぜ!」
いいねー。昔、「若大将シリーズ」があったね。それにかけたんだろう。私だってエコ大将だ。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉