センチメンタル・ジャーニーだ。いや、ジャーニーじゃないな。ちょっと、遠出だ。遠出というほどでもないか。上野まで行ったんだから。
原稿を書いていて、「そうだ。昔、上野でバイトしてたな」と思い出した。あのホテルはどうなっているだろう。多分、あるはずだ。そこに行ったら、又、いろんなことを思い出すだろう。そう思って、行ったのだ。右翼学生運動をやっていて、「全国学協」の委員長になった。右翼学生運動の全国組織だ。そのトップになっていた。その結成大会(1969年)で、九段会館で満員の「闘う全国学友」を前にして「基調演説」をした。我が人生の最も輝いていた瞬間だった。この大会の記念講演は、福田恆存さんと会田雄次さんだった。その頃の保守派論壇のトップの先生だ。華々しい結成大会だった。
ところが、この1ヶ月後、私は全国学協委員長を解任される。人生のトップから、どん底へと突き落とされた。悔しかった。こんなに命を賭けてやってきたのに、と思った。諦めきれなくて、残った仲間たちと謀って、「失地回復」を目指した。でも、ダメだった。その後、郷里の仙台に連れ戻される。そして、縁があって、産経新聞に入る。
でも、この失意の1年間はダメージが大きかった。自分の中では、悔しく、苦しい1年間だった。10年にも20年にも感じた。そして全く、光の見えない1年だった。「あやめもわかぬ 闇路ゆく」という感じだった。いけない。これは大正天皇の御大葬の歌だ。もう歌っちゃいけないんだ…。
正確に年月を調べようと思い、「運動年表」を見た。私の『改訂増補版 新右翼』(彩流社)の巻末に出ている。それによると、全国学協の結成大会は、1969年(昭和44)の5月だ。そして6月に委員長解任。それから私の失意、どん底の1年間がある。東京で、やみくもにあがいていた。生活費は、バイトをしてやっていた。とうとう、万策尽きて、郷里の仙台に帰り、そこで、本屋のバイトをしていた。「失地回復」を目指し、必死に本を読んでいた。車の免許もこの時に取った。
そして、翌1970年(昭和45)の5月に産経新聞社に入った。コネの入社だから、4月ではなく、5月だ。この3月には、よど号ハイジャック事件があった。入社して半年目に三島事件があった。それで、又、昔の仲間たちに会い、1972年に一水会をつくることになる。それから「新右翼」の歴史は始まる。そう書かれている。私も、そう書いてきた。
しかし、1969年5月の全国学協委員長のクビ。そして1970年5月の産経新聞入社。この1年間が、私にとっては、とてつもなく、長く、苦しい、そして悔しい時代だった。今思い出しても、涙がにじむ。でも、その時の悲惨な、悔しい1年があったから、新しい運動をつくる上でのバネになったのかもしれない。
たった1年だったのに。実に多くのことがあった。10年か20年に思えると言ったが、もっと長い。1生分のことをやった、そんな気がする。それで、フッと思い立って、上野に行ったのだ。上野にある「タカラホテル」で私はバイトをしていた。誰にも話してないことだ。文字として書くのも初めてだ。書くのも恥ずかしかったからだ。ホテルでメイドのバイトをしてたなんて、書けない。違った。ボーイだった。いや、フロントだった。どうも頭が混乱している。実は、そのホテルで、ガードマンをしていたのだ。鈴木邦男、26才だ。人生これからのはずなのに、「人生は終わった」と絶望していた。学生運動をやれない。今、あがいているが、もうダメだろう。世捨て人のようなデスペレートな、ささくれ立った気持ちだった。
ホテルで一緒にガードマンをしている人たちは、定年過ぎてやってる人が多かった。「俺だって、皆さんと同じだ」「人生は終わった」と思っていた。定年後の人々と同じだった。
その思い出の「タカラホテル」を探しに、センチメンタル・ジャーニーに出かけた。いや、ちょっと、遠出した。
ここまで書いて、アレッと思った。ジャーニー、の他に「旅」を表す言葉はいろいろある。トリップ、ツアー、トラベルだ。どう違うんだろう。ちょっと調べてみた。ちょっと疑問に思うとすぐ調べてみる。それがこの男のいいところだ。そして、周りの人に聞く。それで何冊か、本も書いている。
まず、「tour」だ。これは周遊、観光、巡回といった意味だ。日本では、決められた旅行や、「集団旅行」の意味で使われている。芝居や音楽会、格闘技の世界(国内)を回るのもツアーだ。
では、「trip」だ。これは短い旅だ。ちょっとした旅だ。上野まで行くのもトリップかもしれん。でも、短い旅では、焦って、思わぬことをもある。だから、転じて、「つまずき。過失」の意味もある。「honey trip」という言葉もある。と思ったが、これは「honey trap」だ。tripもtrapも語源は同じなのだろう。ともかく、「honey trap」だ。「甘い罠だ。蜜の味だ。中国娘のhoney trapなどと言われる。これにからめとられて、蜜漬けにされた運動家が何人もいる。右翼にもいるし、連合赤軍の兵士にもいる。「蜜は銃よりも強し」と古代の賢人も言っていた。(言ってないか。じゃ、私の言葉として、これから残るだろう)
続いて、「travel」だ。旅といえば、一般的には、この言葉が使われる。旅行会社の名前にも使われているし、旅行専門学校にも使われている。だから、一般的に旅といえばtravelだ。旅行者用の小切手だって、トラベラーズ・チェックだし。もともとは、traverse(横切る)からきているのだろう。
では、「journey」だ。旅だ。ただ、人生の行路、行程にも使われている。travelと違い、精神的な意味も含まれている。「センチメンタル・ジャーニー」とは言うが、「センチメンタル・トラベル」とは言わない。
Journey(旅・日程、行程)から、journalという言葉も生まれた。日記や雑誌のことだ。一世を風靡した「朝日ジャーナル」という雑誌があった。又、全共闘の盛んな頃は、それに対抗した「論争ジャーナル」があった。
ということで、「旅」といってもいろいろあることが分かっただろう。では、「旅」についての蘊蓄はこの辺で終わろう。ジャーニー!
さて、話を戻して、上野だ。上野駅の正面出口だ。よく集団就職の生徒たちが下りる出口だ。私も中学を卒業して、上野に来て、ここに降りた(ような気がする)。
その正面出口を出て、広い道路をを右に曲がる。3、4分だ。上野タカラホテルという大きなホテルがある。…はずだったが、いくら探してもない。古そうな店があるので入って聞いた。「あっ、それならこの駐車場です」という。もう10年以上も前に取り壊して駐車場になったんだ。ガックリした。私の青春がなくなった。いや、思い出す手掛かりがなくなった。よく夜勤をやっていた。ホテルを巡回した。又、昼は外に行って、車の誘導をした。忙しく働いているうちはいいが、黙って立っている時がある。あれが一番キツかった、と思い出した。
私の青春を探し歩いて疲れたので、どっか喫茶店に入ろうと探した。アメ横の傍に、古そうな喫茶店があったので入って、コーヒーを飲んだ。カウンターの横に、本が並べてある。「ゴルゴ13」や雑誌などだ。その中に、「昭和の記録」だったかな。写真雑誌があった。何だ、これは、と手に取った。年代ごとに1冊になっている。あれっ、1943(昭和18)年もある。エッ、オラの生まれた年じゃないか。と思って手に取った。1943年8月2日は私の生まれた日だ。この日はなにがあったんだろうと、パラパラと探してみた。カレンダーが出ていて、その日の「一番のニュース」が出ている。さて私の生まれた日は? まず曜日だ。1943年8月2日は月曜日だった。そういえば、誰かが「革命家は皆、月曜日に生まれている」と言っていた。土、日などのウィークエンドや、休みの日に生まれた人はいない。それでは、リラックスしてしまい、「世直し」のエネルギーは湧かない。
さて、この日の「ニュース」だ。「山本周五郎が直木賞受賞を辞退」と出ている。山本周五郎は、私の好きな作家で、ほとんどの小説を読んでいる。「日本婦道記」「さぶ」「赤ひげ診療譚」「樅の木は残った」などは有名だ。1903〜1967年。60年安保のあとまで生きていたんだ。
なぜ、直木賞を断ったかの理由だ。「読者の好評が最大の賞」だという。だから、他の賞は一切、いらないというのだ。
ヘエー、こんなことがあったのか。家に帰ったら、パソコンで探して、ネットで買おうと思った。しかし、いくら探してもない。仕方ないので、数日後、又、同じ喫茶店に行って、しっかりとメモをしたきた。「週刊昭和タイムズ・64年の記録と記憶」という雑誌だ。ということは64冊出ているのか。1冊が560円。「デアゴスティーニ・ジャパン」というところが、発行所だ。
これだけ分かれば探せる。ネットで見た。あった。しかし、全64冊をまとめてでないと買えない。3万5千円か。仕方ない。全部買うか、と思っていた。もう一つ、似たようなシリーズで、講談社から『日録・20世紀』が出ている。こっちは全100冊だ。じゃ5万6千円か。両方で10万近いな。でも、「私の歴史」を調べることは、「日本の右翼史」を調べることだ。日本の戦後史を調べることだ。そのためには必要な投資かもしれない。そう思っていたら、「バラでも売ってるよ」とミク友が教えてくれたので、両方を1冊ずつ買った。では、「昭和タイムズ」の1943年8月2日だ。「山本周五郎の直木賞辞退事件」だ。少し長いが、私だけでなく、〈日本歴史〉上からも重大な事件なので紹介しよう。
〈「日本婦道記」で第17回直木賞に選ばれた山本周五郎が、この発表直後に辞退するという“事件”が発生した。これまで「受賞作品なし」という結果はあったが、賞を作家に断られたのは初めての出来事。山本は「読者から寄せられた好評以外に、いかなる文学賞のありえようはずがない」という信念をもっており、これを貫いた結果が今回の受賞辞退となったのである。その後、直木賞は同時に開催されていた芥川賞ともども、最終候補作品とすることに各作家から了解を得るようになったことから、「決定後の受賞辞退」という珍事はこれっきりになったのであった〉
それにしても山本は勇気がある。普通なら、絶対に断らない。断ったら、文壇で生きていく上で、人間関係もマズくなるだろうし、いろんなことを考える。反撥もくうし、仕事もやりにくくなる。それに、何も、偉そうなことを言わずに、もらえばいいだろう。と、皆、思うよね。でも、自らのポリシーを貫いた。なかなか出来ることではない。
「読者の好評が最大の賞」ということは、大切なのは「読者」だ。読者が決めるのだ。出版社が勝手に「これはいい」と断定し、賞を出すなんておかしい。そう言ってるようなものだ。反逆児だ。たとえ1人になろうと、自分はやる。自分には読者がついている。そういう悲壮な決意だ。
山本はその後、36年に「青べか物語」で文藝春秋読者賞に推薦されるが、これも辞退した。「読者」の賞であっても、読者そのものではない。ともかく、賞とつくものはいらない。迷惑だ。ということなのだ。
もしからしたら、「賞」そのものへの否定だけではないだろう。これが、「直木賞」だったからではないか。直木三十五の名前をとって、直木賞はつくられたが、直木三十五その人へのライバル意識もあるのではないか。
直木賞は直木三十五の業績を記念し、大衆文学の新人の顕彰を目的として、菊池寛が1935年(昭和10)に設けた新人賞だ。年2回だ。
では芥川賞はどうか。芥川龍之介を記念し、1935年(昭和10)に文藝春秋社の菊池寛が設けた文学賞。年2回。優れた純文学の作品を発表した新人作家に贈られる。
両方とも、菊池寛が1935年につくった賞だ。両方とも新人作家の発掘を目的にしており、現在も行われている。しかし、芥川賞は純文学。直木賞は大衆文学となっている。芥川賞の方が、グンとレベルもグレードも高い。
この時は、この2つの賞が出来て、10年目だ。まだ、出来たばかりの若い賞だ。それに、同年代の作家の名を冠した賞だ。その2人はむしろ、山本周五郎にとってライバルではないか。それなのに、この2人を〈大家〉として認め、その人の賞をもらうことは、自分がその「弟子」になることだ。そんなことまで思ったのではないだろうか。3人は多分、同時代だと思ってちょっと調べてみた。
山本周五郎 1903〜1967(享年63才)
直木三十五 1891〜1934(享年43才)
芥川龍之介 1892〜1927(享年35才)
山本より直木は12才上だ。山本より芥川は11才上だ。大体、同時期を生きたといってよい。
山本は芥川を尊敬し、認めていた。芥川は作品も多いし、素晴らしいものが多い。だから、「芥川賞」だったら辞退しなかったかもしれない。今から読んでも、「日本婦道記」は素晴らしい。後々まで読み継がれた。僕らが学生時代にも、「生長の家」では、「女性だけでなく男も皆、必ず読め」といわれた。格調高く、日本人はこう生きるのだ。女性はこう生きるのだ。ということが書かれている。とても「大衆小説」などではない。こういうことに不満があったのかもしれない。
それに直木賞の直木三十五だ。多分、今の若い人なら、ほとんど知らないだろう。著書は「南国太平記」や「関ヶ原」というが、読んだ人はいない。本屋にはない。文庫にもない。つまり、忘れられた、死んだ作家だ。「直木賞」として名前だけ残っている。これもかわいそうな話だ。残酷な話だ。直木の本を古本屋で探して読んでみても、あまりいいものはない。もし今、直木三十五が生きていて小説を書いたら、残念ながら、直木賞をとれないだろう。
「俺は直木三十五程度のレベルじゃないぞ」と、山本周五郎は思ったのかもしれない。
もしからしたら、これは私の〈邪推〉かもしれない。考えすぎだろう。文学に詳しい人に何人か聞いた。「鈴木さんの考え過ぎですよ」と言う。そうかもしれない。純粋に、「読者」のことだけを思い、文壇側が勝手につくる「賞」を徹底的に嫌ったのかもしれない。だったら、山本の死後、「山本周五郎賞」なんか作るなよ!と私は言いたい。これはおかしいだろう。山本もあの世で激怒しているのではないだろうか。
これは私ごときが言っても仕方ない。「山本周五郎賞」を受賞した作家が言ってほしい。「私は受賞を辞退します。山本先生の遺志に背きますから」と言って。でも、賞をもらったら、なかなか、「辞退する」とは言えないだろうな…。
昭和18年8月2日にからんで、もう一つの〈事件〉があった。『日録20世紀』(講談社)の「1943年(昭和18)」を読んだ。これによると、8月2日は火曜日だ。いや、嘘だ。ちゃんと月曜日になっている。ただし、この日の事件、ニュースが違う。山本周五郎ではない。こういう〈事件〉が載っている。
〈昭和18年8月2日(月)
駆逐艦「天霧(あまぎり)、ソロモン沖で米魚雷艇を撃沈。後の米大統領、ケネディ中尉負傷」
エッ、と思った。こっちの方が大事件じゃないか。この時、助からなかったら、「ケネディ大統領」は生まれない。だから、この「ニュース」は私の『愛国と米国』にも書いた。私が高校2年の時、ケネディが大統領になった。60年安保で、日本は反米一色だったのに、この若い大統領の登場で、〈アメリカ観〉は一挙に変わった。そんな事情も書いた。
この『日録20世紀』の8月のページには、トップが、「大日本婦人会。竹槍訓練」の写真だ。凄い写真だ。こんなことをやっていたんだ。悲壮な覚悟だ。私は8月2日に福島県郡山市で生まれたが、生まれた時、外では、こうしたご婦人方の「竹槍訓練」がされていたそうな。だから、こんな愛国的な少年が生まれたのだろう。「竹槍少年」だ。
そんな少年たちが大きくなって、全共闘時代を迎え、ゲバ棒を持って、機動隊と闘った。早大や東大では、よく、長いゲバ棒や竹を持って、「突撃訓練」をしていた。それは、皆、子供の頃、あるいは胎児の頃、見た「竹槍訓練」の〈再現〉なのだ。〈胎児の夢〉が、全共闘の突撃訓練なのだ。
①そうなんです。私の不遇時代の写真です。今も不遇ですけど。最も不遇な時代です。1969年です。ザ・ガードマンをやってました。上野タカラホテルの他、某女子大学の警備も。これはその女子大の警備ボックスに立つ私です。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉