不思議な現象だ。今まで天皇に関心も興味もなかった人達が、急に〈天皇〉と言い出した。小林よしのりさんの『天皇論』(小学館)効果だ。驚くべき力だ。影響力だ。又、「天皇制はいらない」「天皇制は差別の元兇だ」と言ってきた左翼の人々も、今やそんなことは言わない。「今の天皇陛下は素晴らしい」という。左翼だって認めざるを得ないのだ。「天皇制打倒!」などと言ったら、ますます孤立する。消える。だから、自分たちの(左翼という)「種の保存」のためにも、もう「天皇制打倒」は言えない。「天皇は憲法を守ると言った。最大の護憲派だ」「サイパンでは韓国人慰霊碑で黙祷した」と言う。「首相でもやらないことだ」と。自分たちの都合のいいように〈利用〉して、天皇は素晴らしいと言っている。でも、たとえ「方便」でも「仮面」でもいい。言ってるうちに〈本心〉になる。本人たちだって、方便と本心の区別がつかなくなる。いいことだ。
これも小林さんの『天皇論』効果だ。かつての『戦争論』と同様に、いや、それ以上にタブーであり未踏の分野に踏み込んで、人々の蒙を啓いた。その功績は大きい。
6月26日(金)、夜、「保坂展人を激励し共にたたかう集い」に出た。都市センターホテルだ。社民党の支援者だから左翼っぽい人が多い。「鈴木さんの考えには賛成です」と言う。そして一様に、付け加える。「天皇制の問題は分かりませんが」と。「でも、今の天皇はいい人だと思います。他の人ではとても出来ません」と言う。
つまり、今の天皇は素晴らしい。それは認める。しかし、昭和天皇は戦争を起こしたし、過去の天皇制は認められない。そう言うのだ。それが、現在の左翼のレーゾン・デートル(存在理由)だと思っている。「最後の砦」と言ってもいい。
「でも、戦争に一番反対したのは昭和天皇ですよ。最も平和を願っていたのが天皇です。それは小林よしのりさんの「天皇論」を読めば分かります。あれ1冊読めば十分です!」と言ってやった。「SAPIO」では時々読んでたという。だから、「今の天皇は素晴らしい」と思ったのだろう。小林さんの、まとまった『天皇論』を読んだら、又、衝撃を受けるだろう。
この前の日、6月25日(木)、グランドアーク半蔵門に行った。「創刊12周年。『月刊日本』を叱咤激励する会」だ。よく頑張っている雑誌だ。主幹の南丘喜八郎氏、編集長の山浦嘉久氏は早大出身だ。私と同じ時代に、全共闘と闘った右派学生だった。その縁で、天野孝一郎氏や、海老原満雄氏など懐かしい人々にも会った。宮崎正弘氏にも会った。学生時代の話になった。「左翼とはよく、激論したよね。殴り合いもしたけど…」と、話をした。
早大の右派学生といっても様々だ。日学同(日本学生同盟)があり、生学連(生長の家学生部)が中心になった全国学協があった。さらに、日本学生会議があり、国策研究会というサークルを持っていた。他に、土曜会、早稲田精神昂揚会などがあった。自民党や民社党の学生部もあり、原理研究会(統一教会)もいた。いろんな人々が集まり、「巨大な敵」全共闘と闘っていた。
日学道が一番華々しかった。マスコミにも出た。ここの出身者が多数、三島由紀夫の「楯の会」に行った。三島事件の時、市ヶ谷に行った森田必勝、小川正洋は日学同の出身者だ。市ヶ谷に行ったもう2人、小賀正義、古賀浩靖は生学連だった。この日学同は、路線の違いで、途中で分裂する。自民党系の学生が出て行って、同じ「日学同」を名乗ったのだ。ややこしい。彼らは神田に本部を持ったので、「神田派」と呼ばれた。元々の日学同は「早稲田派」だ。
勿論、右派学生運動の歴史では、「日学同(早稲田派)」しか記録に残ってない。私もそう書いてきた。しかし、今から考えると、「神田派」も長く頑張った。新聞を作り、集会、デモもやり…と。各大学で左翼とも戦った。この「神田派」の歴史についても、きちんと書く必要がある。そう思っている。
この「月刊日本」のパーティで会った海老原満雄氏が、その「神田派」の初代委員長だった。この神田派は別称、「自由派」とか「自民派」「ハト派」とも言われていた。日学同の本流は、「早稲田派」「国粋派」「タカ派」とも呼ばれていた。しかし、「日学同は一つだ」と早稲田派の人はいっていた。お互いがお互いを認めていない。中国と台湾のようだった。
この日、来ていた神田派の海老原満雄氏は、能力のある男だったし、勉強家だ。早大のキャンパスでよく全共闘と論争していた。話もうまかったし、理論家だった。ガチガチの右翼学生ではなく、自由、民主を愛する「反左翼」学生というタイプだった。日学同が分裂してからは、彼の名を取って、「海老天(えびてん)学同」などと揶揄されていた。誰が言ったのだろう。私だったのかもしれない。
この「月刊日本」パーティには日学同「早稲田派」の宮崎正弘氏(現・評論家)も来ていた。そして、海老原氏とも話をしている。昔なら信じられない。組織を割った「裏切り者」だ。でも、そんな内ゲバも遠い昔だ。いいことだ。そのうち両派が共同で、「統一運動史」を作ってもいいだろう。画期的なことだ。「ここまでは一緒」「ここで分裂」と、分裂後は上に早稲田派、下に神田派の歴史を書いていく。面白いじゃないか。日本と中国でも歴史認識を共有し、統一教科書を作ろうという試みもあるのだし。
この「月刊日本」のパーティでは、もう1人、とても懐かしい人に会った。国策研究会(日本学生会議)の天野孝一郎さんだ。早大時代は私の「お師匠さん」だった。だって、何でも知ってるし、早大右派学生の一番の「論客」だった。国策研は、他に影山さん、そして山浦氏らがいた。皆、凄い論客だ。それでいて武闘派だ。全共闘と一歩も引かず論争し、論破していた。喧嘩も強かった。とても僕らには出来なかった。
たとえば、ストライキの時だ。僕らは、「ストは学生の本分に反する」「これは外部の左翼の指令でやってるのだ」と言って全共闘に噛みついた。考えてみれば幼い理屈だった。全共闘に勝てるわけはない。ところが国策研は、キャンパスに大きな立て看板を出した。そこには、「これは、瑕疵(かし)ある意志表示である!」と書かれていた。エッと思った。「瑕疵」って何だ。全く分からない。よく読むと、「キズ」とか「欠損」という意味らしい。つまり、全学生の意志を表してストに突入したというが、嘘だ。というのだ。クラス討論をし、そこで過半数を取り、それを学部に持ち寄り、意志決定したと全共闘は言ってるが、嘘だと言う。その嘘の過程を詳しく書き、立証する。
他にもこうした立て看板を出していたし、それに文句を言う全共闘は迎え撃って堂々と論破していた。右派学生の中では、最も強い集団だった。私は、そこの天野さんからはよく教えてもらった。マルクス・レーニン主義について、その弱点について。共産党について。中国やソ連について。私よりも、ずっと上の人だと思っていた。(ところが実際は1歳下だった)。武闘派でもあり、「山にこもって1人で空手の練習をしてきた」などと言っていた。
早稲田の近くに「ジュリアン」という喫茶店があって、右派学生の溜まり場だった。そこに「一般学生」を連れ込んで、仲間にしようとした。大学では、毎日のように全共闘と論争する。時には殴り合いになる。それを遠巻きにして一般学生が見ている。「そうだ!」とか、「ナンセンス!」とか時々、野次を入れる。我々に好意的な人間は必ず目を付けて、喫茶店に誘い、話し合った。「オルグ」(勧誘)だ。そして仲間に入れた。後に、三島由紀夫と共に自決した森田必勝氏も、こうして仲間になった1人だ。
喫茶店は早大大学院の矢野潤さんが経営していた。この人も理屈っぽい人で、私らはよく教えられた。又、矢野さんの友人で、玉沢徳一郞さん(後に国会議員になる)も来て、よく私らに教えてくれた。ミロバンディラスの本をテキストにして、世界情勢や反共理論について教えられた。「敵の思想も学び、論破するのだ!」と言われ、マルクス、レーニン、毛沢東、トロツキーなども読んだ。玉沢さんも凄かったが、私にとっては天野さんが一番の論客だと思った。明治維新の時、上野の山に立てこもって官軍と闘った彰義隊がいる。その隊長は天野という人だ。だから、私は、2人の天野さんを同一視して、尊敬し、仰いでいた。
皆が集まって勉強するのは、勿論、「敵に勝つ」ためだった。そのための「武論武装」だった。つまり、「反共」の理論が中心だった。いかに共産主義は間違っているか。革命になったら大変だ。革命を起こした国はどうなっている。…といったことが多かった。それを武器にして全共闘と闘った。三島由紀夫、林房雄、福田恆存なども「武器」になった。
防衛論、憲法論、反米論、領土論では全共闘に論争を仕掛けて、負けなかった。「アメリカに押しつけられた憲法でいいのか。日本の自立はどうした!」というと、周りの一般学生からも、そうだ、という声が上がる。北方領土、沖縄などの問題も、民族主義に訴えるから勝てる。東京裁判史観、YP体制打倒論にしても、そうだ。
防衛論は右派学生の独壇場だった。全共闘と論争してる時、いきなり殴る。相手は殴りかかる。あるいは、逃げる。「ほら見ろ、そういう反応を示す。でも日本列島は足がないから逃げられない。闘うしかないだろう。自衛力は必要だ!」といって論破してしまう。随分と乱暴な理論だが、口と手が一緒になった「統合理論闘争」だ。
今言ったように、憲法、防衛、領土、反米、反共、反革命…といったテーマは、こっちが「攻撃的」になれる。だから、闘いやすかった。時には乱闘に持ち込みながら、論争し、一歩も引かない。
でも、一つだけ、ネックがあった。弱点があった。「天皇論」だった。これは「攻撃的」なテーマではない。昔の軍人のように、「貴様、不敬だ!」と言って殴って済むことではない。理論的に言わなくてはならない。憲法、防衛、領土…といったテーマは、失われたものを取り戻す闘いだ。アメリカやソ連に奪われたものを、取り戻すのだ。国家の「当然の権利」として取り戻すのだ。だから、闘い甲斐があるし、いくらでも「攻撃的」にやれる。
ところが、天皇は、昔から続いていたものだ。敗戦でもなくならない。ずっとある。だから、全共闘からは、「過去の遺物だ」「反動だ」「差別の元兇だ」と批判される。途端にこっちのトーンも落ちる。「やりづらいテーマ」だった。「闘いにくいテーマだった。それに私は「生長の家出身」だ。宗教的な天皇論だ。自分では納得しても、他人に理解させるのは難しい。悩んだ。
三島由紀夫は『文化防衛論』を書いた。我々は、これに飛びついた。しかし、レトリックが難しい。全共闘と闘う時の〈武器〉にはなりにくい。それに、この本は、本当は「天皇防衛論」だ。でも、そう書くのは憚られた。そう書くことで、「何だ、ただの反動か」「ただの保守か」と三島は思われたくなかった。そう思う。だから、自分は文化の面から書いて、天皇防衛の論理を書く、と思ったのだろう。
又、三島には『反革命宣言』という本がある。「楯の会」初代学生長になる持丸博氏は言っていた。「保守、反動と思われたくないんですよ」「だから、三島さんらしいレトリックの中で天皇を取り上げている」と。それに、「反体制」「反権力」--と「反(アンチ)」は格好いい。だから、「反革命宣言」にしたんですよ、とも言っていた。
林房雄は『大東亜戦争肯定論』を出した。人々にショックを与え、居直っている感じがした。でも、これで左翼とは戦えないな、と思った。特に天皇問題はそうだった。
一部には、里見岸雄の『万世一系の天皇』や『天皇とプロレタリア』『国体に対する疑惑』などを読んでる人もいた。これは役に立った。昭和4年頃、左翼が強い時に、「天皇はむしろ、プロレタリアのためにあるんだ」「権力者や金持ちのために天皇はあるんじゃない!」と言ったからだ。今の我々と同じじゃないか、と思った。いわば、『反体制』的な存在として天皇を捉えられると思ったのだ。
当時の右派学生は、やはり、コンプレックスがあったのだ。「保守」「反動」と思われたくない。我々だって、世の中を変えるのだ。「革新勢力」だ。血盟団、5.15事件、2.26事件を見てみろ。皆、〈革命〉じゃないか。我々だって、天皇を戴いた〈革命〉をやるのだ。そう思っていた。ところが戦前ならば、国民の全てが天皇を尊崇し、それは、「当然のこと」だった。
「我々は日本人である」という位に当然のことであり、前提条件だった。だから、どれだけ天皇を信じているか、どれだけ尊崇しているか、その〈忠誠〉競争だった。
ところが、我々が学生運動をやっていた時は違う。その「当然」「前提条件」がない。特に、学生はそうだ。最も、進歩的だ。最も革命的な雰囲気の中にいる。
そこで、どうやって、我々の「革新」「正しさ」を主張し、認めさせるか、悩んだ。天皇は必要だ。でも、どうやって証明するか、だ。中には、思いあぐんで、「スメラギ(天皇)・アナーキズム」と言い出す者もいる。天皇という一点は認めるが、それ以外は全てアナーキーでいい。〈反体制〉の天皇論だ。中には、「天皇よりヒトラーの方が好きだ」と口走って、批判される人間もいた。天皇論をめぐる「闘い方」には苦労した。
「終戦の時の天皇の決断」「マッカーサーと会って、自分の身はどうなってもいいから国民を救ってほしいと言った」という事実を言っても、なかなか納得してもらえなかった。今のテレビ討論と同じで、声の大きい人間、過激な人間が勝つ。「そんな人情論で逃げるのか!」「そんな事実はない!」と左翼は大声を上げる。冷静に天皇論を話す土壌がなかった。
「正面」から闘えなければ、じゃ、側面から行くか。裏に回って闘うか。いろんなやり方が模索された。『愛国と米国』(平凡社新書)でも書いたが、「我々が護るのは“理念としての天皇”であり、“現実の天皇”ではない!」などと口走る学生もいた。又、北一輝、吉田松陰の天皇論を持ち出し、何とか、〈変革〉の側に天皇をもってこようとした。世の中を変える旗印としての天皇だ。そのことによって、自分たちの運動も〈変革〉運動だと思わせたかったのだろう。
1972年に一水会をつくり、1975年8月に「レコンキスタ」(一水会機関紙)をつくった。その創刊号(75年8月号)に私は原稿を書いた。「保守の拠点か変革の原基か」というタイトルだった。天皇を「変革の原基」として捉えている。それは間違いではないが、多大な「思い入れ」をする「変革の原点」だったし、これからもそうあってほしいと。又、だからこそ我々は天皇制を支持するのだ、という気持ちもある。我々の運動は保守、反動ではない。だから天皇の「変革の原基」だという論理だ。今から考えると、天皇の「政治利用」かもしれないと思う。又、天皇を「そのまま」で見、支持しようという〈勇気〉がなかったのかもしれない。
そのようなコンプレックスや、「天皇論」を書く上での悩み、迷い、逡巡があったことは事実だ。これは今頃になって、強く思う。
さて、そこで、「月刊日本」のパーティだ。昔の右派学生仲間たちと、そんな話もした。
「それにつけても、小林よしのりさんの『天皇論』は凄いよな」という話になった。
「正面から堂々と天皇論をやっている。とても俺たちは出来なかった」…と。
たしかに、我々は、左翼の「反天皇論」に対する「反論」としてやってきたような気がする。又、天皇並びに皇室の歴史を、そのまま見ることがなかった。そのまま伝えることがなかった。「変革の原基」として、一部分を大きく主張し、それで「天皇防衛の論理」にしようとした。明治維新の時の天皇、終戦の時の天皇…と、「一断面」だけを取り上げて、天皇論をやっていた。長く続いた、いわば〈保守〉の面を無視してきた。その部分では左翼に勝てないと思ったのだろう。勇気がなかった。
その点、小林さんの天皇論は、違う。〈変革〉〈保守〉を超えて、天皇を見る。ありのまま見る。そして、長い皇室の歴史を書く。これは画期的な『天皇論』だ。小林さんは天皇論の入門書と謙遜するが、ここに〈全て〉がある。
45年間、右翼運動をやってきて、天皇論を考え、苦闘してきたのに、たった1冊の本に負けた。凌駕された。
又、この『天皇論』は小林さんの「個人史」もからめている。「君が代」を皆の前で歌えなかった。恥ずかしいし、保守・反動と思われるのも嫌だ。それが堂々と歌えるようになった。その体験を書く。又、皇居の一般参賀に行って、「天皇陛下万歳」を叫ぶ。これも全くの初体験だ。恥ずかしくて出来なかったことだ。それが出来た。自然に出来た。「万歳童貞」を捨てた!と表現している。我々には考えもつかなった表現だ。これを読んだ何万、何十万という人々が、「万歳童貞」を捨てるだろう。これは、もう「革命」だ。
又、この本は、ぐじぐじとした暗雲を一挙に払ってくれた。これは、実にスッキリする。今、左翼の中で、「天皇制打倒!」などという声はない。少しはいるのかもしれないが、聞こえない。日本共産党だって、反対しない。認めている。私の会う左翼の人だって、「今の天皇陛下は立派だ」と言っている。「実録・連合赤軍」を撮った左翼の映画監督・若松孝二さんは、「天皇にもっともっと政府を叱ってほしい」と期待する。昔、若松さんは「明治天皇と日露大戦争」の助監督をやったのだ。その時の情念が戻ったのかもしれない。今度は、17才で死んだ右翼少年・山口二矢を撮りたいと言っている。
今、左翼の「天皇制打倒論」はない。しかし、保守派の方に、陰湿な天皇批判がある。批判、反対とは言わない。あくまでも、「皇室は大切だ。皇室はずっと続いてほしい」と言う。その上で、「だからこそ、今の皇室が心配だ」と言う。「皇太子さまはおかしい」「雅子さまはおかしい」と批判する。中には「皇太子さまに諫言する」と言う人間まで出る。「雅子さまは反日的な勢力と繋がっている」などと口走る人もいる。でも、「皇室を護り、大切に思うが故だ」と言われると、右翼も攻撃できない。やり方が卑劣だ。むしろ、かつての左翼の「天皇制打倒」の方がマシだ。だって、「天皇制は差別の元兇だ」「憲法違反だ」とは言っても、「大きな論争」だった。制度論、政治論として論争を仕掛けてきた。決して、人格攻撃ではなかった。プライベートなことでの嫌がらせでもない。今の「尊皇」を気取った皇室批判は次元が低い。許せないと思っていた。私も時々書いたが、全く効果はない。反応もない。
それが、小林さんの『天皇論』で、ものの見事に吹っ飛んだ。暗雲が吹き払われた。この本は皇室の方々も読んでるはずだ。きっとご安堵されていると思う。その点では、この本は、最近における最も忠なる本だ。そう言える。我々が必死にやってきた、いや、やろうとして出来なかった。それをやってくれた。皇室の方々も、ご安心だろう。我々も、感謝したい。
『天皇論』の最後の方で、皇后さまのお言葉を引いて、小林さんは、こう言っている。
〈「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日にいたっていると思います。この変化の尺度を量れるのは、皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」
平成6年、皇后陛下の誕生日のお言葉である。だとしたら、本来は天皇陛下や皇太子殿下が決めることだ。皇室祭祀は究極的に天皇御一人で成り立つものだから。
そして将来、女系天皇が誕生するようなことになってもわしは失望しない。益々国民が天皇に注目し、敬愛を深め、かえって伝統が強化することだってあるかもしれない。そうなるように皇室の意義を子孫に我々が伝えてゆかねばらない〉
小林さんは、ズバリと言う。その通りだと思う。ここに全てがあると思った。勇気のある正論だ。
また、小林さんは、里見岸雄の『天皇とは何か』を取り上げて紹介している。
〈戦前、戦後を通して活躍した国体学者・里見岸雄氏はこう述べている。
「権威主義は、なるほど社会の進歩、個人の自主性の自覚にともない衰退するであろうが、人間が権威から解放されると信ずるのは、人間の本質を知らないからである。人間は、いかなる時代になろうとも権威から解放されることはない。権威は人間生活の支柱である」〉
里見から多くのことを学んだ私としては、とても嬉しいし、ありがたい。小林さんは、さらに『天皇とプロレタリア』や『国体に対する疑惑』なども読んでいる。凄い。私は、「今こそ里見岸雄を」と思い、必死で紹介してきたつもりだが、効果はあまりなかった。でも、こうして小林さんが紹介してくれたんで、後、評価され、大いに読まれるようになるだろう。
里見の『天皇とプロレタリア』は昭和4年に出て、大ベストセラーになり、百刷を重ねた。当時は、里見は〈社会現象〉だった。成瀬巳喜男監督の『放浪記』(林芙美子原作)という映画がある。林がセルロイド工場からの帰り道、本屋に寄って、本を1冊取り出す。その横には、里見岸雄の『万世一系の天皇』が置かれていた。心憎い演出だ。小道具だ。それだけ、当時は里見の本が売れていたし、社会現象になっていたのだ。このDVDはレンタルビデオ店にあるから、借りてみたらいいだろう。
里見は「天皇論に革命を起こした人」だった。三島由紀夫も、里見の本に影響された。竹中労に言わせれば、「三島の『文化防衛論』の原典は里見だ」と言う。また、私も、里見になりたいと不遜にも思ったことがある。でも、なれなかった。小林さんの『天皇論』を読んで、あるいはこれが里見かと思った。天皇論に革命を起こした男は小林さんなんだ。それも、正々堂々と闘い、あらゆる迷い、暗雲を吹き飛ばしている。今まで誰も出来なかったことだ。
②〜⑤『天皇論』の中から。これだけ尊崇と愛情をもって天皇論を書いた人はいません。本の漫画に私も入ってました。光栄です。ちょっと過激な場面を描いて、「SPA!」から落とされた直後です。付箋を一杯はさんで熱心に読んだので、小林さんもビックリしてました。今回の『天皇論』は、もっと付箋をはさんでいます。
⑧「月刊日本」の12周年パーティの時、早大の昔の仲間たちと再会しました。天野孝一郎さん(中央)は早大右派学生で早大第一の論客でした。又、宮崎正弘(日学同書記長)氏(右)は今は、評論家として大活躍中です。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉