前言を撤回します。大きくなったら小説家になりたい。と書いたけど無理だ。私じゃダメだ。いくら大きくなっても、生まれ変わっても無理だ。そう痛感しましたね。この小説を読んで。圧倒的な迫力だ。ハラハラ、ドキドキしながら最後まで一気に読ませる。革命小説だ。そして恋愛エンターテインメントだ。実話を基にしている。だが、そこを大きく超えて〈物語〉は進む。どこまでが事実で、どこまでがフィクションか分からない。いや、事実と思っているものも、全て小説だったのかもしれない。
佐伯紅緒さんの『かれ、ときどき、テロリスト』(イースト・プレス)だ。主人公の「テロリスト」は見沢知廉氏だ。新左翼・戦旗派から新右翼・一水会に入り、「スパイ査問事件」で12年の刑務所暮らし。刑務所の中で書いた『天皇ごっこ』が新日本文学賞を受賞。出所と同時に作家だ。『囚人狂時代』『調律の帝国』など、大ヒット作を出し、三島賞にノミネートされたが賞を逸す。又、作家だけに専念できず、革命を目指し、新たな政治運動を模索する。しかし、4年前に自殺した。
ここまでは事実だ。でも、この事実からして謎に満ちている。何のための「査問」だったのか。獄中で何があったのか。どんな心境の変化があったのか。彼は刑務所で、文字通り、〈地獄〉を体験した。地獄から生還した男は、元の男だったのか。なぜ、それほど三島賞にこだわったのか。又、地獄を耐え抜き、あれほど強い男がなぜ死んだのか。いや、自殺ではない、と言う人もいる。いや、本当は生きている、と言う人もいる。源義経や西郷隆盛や安徳天皇が、実は逃げのびて生きていた。という伝説もある。見沢知廉も死後4年にして、すでに「伝説」になっているのだ。
マンションから飛び降りて自殺した。となっているが、実は足を折って入院しただけだ。今も生きていると主張する人もいる。入院中の写真を証拠として、ブログに発表した人もいる。そちらの方が本当かもしれない。
佐伯紅緒さんのこの小説でも、見沢知廉は死んでない。ピストルで撃たれながらも、逃げのびる。ハードボイルドな男だ。勿論、小説だ。と思うが、見沢氏のお母さんは、「見沢を殺さないでいてくれてありがとう」と佐伯さんに礼を言ったという。「まだどこかで生きている」と思わせてくれたのだ。モーターボートで危機を脱出した見沢氏は、北のあの国に辿り着いたのかもしれない。じゃ、いつか帰ってくるだろう。
この本の宣伝チラシには、こう書かれている。
〈一冊の本がきっかけで出会った「かれ」は、懲役10年の刑を受けた殺人犯だった…! 普通のOLと元囚人作家。出会うはずのないふたりの、スリリングな恋愛エンターテインメント小説〉
本当に「スリリングな恋」だ。でも、活動家、元囚人だから、それだけで、その恋はスリリングなのか。そんなことはない。何十年も刑務所にいても、又、左右の危険な活動家でも、凡庸な恋をしている。いや、恋もしないで、なりゆきで結婚している人が多い。中国人のハニー・トラップに簡単に引っかかって結婚した活動家も多い。
その点、見沢氏は活動も恋も過激だ。危険だ。危険なムードを持つ男には、女が引き寄せられるのだろう。テロリストは女の心も射止め、破砕する。その点、出獄して「普通の人間」に戻った男には危険な香りもない。洗い流されたのだ。女も引き寄せられない。「テロは否定だ」などと軟弱なことを言う男には最初から女は興味も持たない。この小説には、そんな情けない「政治団体のトップ」も出てくる。もはや、危険な香りもないから、女にも相手にされず、ヤケで変態プレーに走る。「こいつならきっと、こんなことをやってるはずだ」と思わせる迫力がある。文章の力だ。小説は恐ろしい。私にはとてもこんな小説は書けない。
そうだ。今まで見沢知廉氏が主人公だ、と言ってきたが、小説の中では違う名前だ。「大和ユキオ」という名前だ。 じゃ、全く架空の人物を作ったのか。だったら、私が、「モデルは見沢氏」と書いたらマズイだろう。心配になって、佐伯さんに聞いてみた。「そうです。見沢さんがモデルです。それは初めに書いておきました」という。しかし、読んだけどなかった。
「やっぱり、ないよ」と再び聞いたら、最初の一ページに、一行、英語で書いているという。エッと驚いた。確かにあった。
〈In memory of Mr.Chiren Misawa.(1959-2005)〉
「みんな見過ごしているのよね」と佐伯さんは言う。次のページにはギルバート・K・チェスタートンのこんな言葉が書かれている。
〈人間は理解し得ないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができる〉
うん、これはちゃんと読んだ。このチェスタートンの言葉を証明するために書かれた小説かもしれない。危険なテロリスト・大和ユキオは出所後、作家としての道を歩む。危険な香りに女たちは引き寄せられる。OLの上原倫子(ノリコ)もそうだ。バンドをやる女・明神トモエもそうだ。又、元過激派の女闘士もいる。しかし、それで満足できるユキオではない。再び、革命の夢にとりつかれ、ひた走る。そして又、「同じ過ち」を繰り返そうとする。どうするノリコ。どうするトモエ。
これはユキオをめぐる女二人の〈戦争〉物語でもある。それほど魅力のある男なのだ。ユキオは。相手を殺してでも奪い取りたい男だ。単なる恋の鞘当てではない。ピストルも出てくる。物騒な恋だ。究極の恋だ。勿論小説だ。でも、「あったかもしれない」と思わせる。作家のペンの力だ。たいしたものだ。新左翼過激派時代からの親友・「加藤」は設楽氏のようだ。又、新左翼のリーダー・「村田」も出てくる。皆、個性的で格好いい。運動家の世界がよく分かる。
主人公・ユキオを恋するOLノリコの物語だし、ユキオをめぐるノリコとトモエの恋の争奪戦だ。でもOLノリコを恋するブライアン・中澤という男が登場する。この辺も実話を基にしているようだ。そうすると、主人公は実はノリコで、ノリコをめぐる過激派(ユキオ)と普通の人・中澤の恋の争奪戦のようにも見える。恋する男女の心は複雑だ。そんな危険で、ミステリアスな様子がリアルに描かれている。そんな体験のない私には、とても書けない世界だ。小説なんて無理だ、と思わせた原因だ。
そして不思議なのは、こんな〈危険な恋〉に感動し、涙し、羨ましく思う若者が多いことだ。それも、普通の若者だ。
おいおい、やめとけよ。もっと安全な恋をしろよ、と注意したくなる。
女優のミムラさんは、本の帯に、こんな推薦文を書いている。
〈恋人。友達。家族。どの言葉もユキオとノリの関係性を表すのには物足りない。計り知れずアンバランスで強固な関係性がヒリヒリと眩しくて、なんだかとても羨ましくなってしまった〉
うーん、いいね。ここまで言わせるのか。この「危険な恋」が。それに全国の書店員さんの絶賛の声もチラシには書かれている。うらやましい。私なんて、60冊も本を出してるけど、一度だって書店員さんに誉められたことはない。たとえ頼んだって断られるだろう。「誰が書くもんか。こんな奴の本に」「こんな奴の本なんて、買うな。バカヤロー」と言われるだろう。うん、そんな声を集めて「宣伝チラシ」にしてもいいな。「全国の書店員さんから大ブーイング!」「買ったら地獄に堕ちる!と全国の書店員さんの声」…なんて、いいだろう。
でも、それだって書いてくれないだろう。その点、佐伯さんの本はいい。書店員さんは絶賛だ。売れてる。素晴らしい。店員さんは、こう絶賛する。
〈革命を目指した彼が変えたのは彼女の恋心。彼女に起こった大きな革命を、世の女性たちにも体験していただきたいです。
松川智枝(啓文堂書店・吉祥寺店)〉
〈この生きづらく変わらない世界を“あきらめる”ことこそ、“現実”を見据えるもっとも賢い術だと信じていないか? 本書の過激な誠実さは、そんな“堪え性”のなさを脅かすテロとなって、あなたを“変革”するだろう。
宇田川哲也(ときわ書店・本店)〉
〈彼女はただ、彼を抱き起こしてあげたかっただけなのだ。行く先も、意図もわからない道。ステップを踏み続けることが彼らの唯一の選択肢。道に迷っているあなたにお薦めしたい小説です。
秋山弘毅(三省堂書店・大宮店)〉
〈ふたりの落差にギュッとつかまれたままハラハラのラストまで一緒に走ります。最後の彼からの長い手紙に、主人公同様ゆっくり癒される“ありがとう”の恋愛小説。
矢部潤子(リブロ・池袋本店)〉
ヒャー、みんな、うまいですね。この書店員さんは、小説家予備軍ですよ。もしかしたら、その辺の小説家よりうまい。私なんて、とてもとても書けない。今、大新聞を見ても、「書店員さんが薦める本」というコーナーがある。「あの書店員さんに薦めてもらったら必ずベストセラーになる」という人もいる。恐るべし、「書店員さんの力」だよ。
さて、佐伯さんの本に戻る。出所後、作家として順調なスタートを切った大和ユキオだが、革命運動への夢を捨て切れず、再び政治団体をつくる。それが、「斜陽の会」だ。およそ政治団体らしくない。見沢氏の中に「太宰治」を作者は見たのかもしれない。その思いが、こうしたネーミングになったのだろう。太宰は芥川賞が欲しくて欲しくて仕方がなかった。選考委員に懇願の手紙を書いた。何通も。又、落選したと言っては、怒りの行動にも出た。それが哀れだ。どうして、そんなに芥川賞にこだわったのか。それは見沢氏が三島賞にこだわった悲しさにも似ている。それを作者は言いたかったのかもしれない。死後4年。死後追贈でもいい。三島賞をあげてやれよ。と私は叫びたいね。
太宰だって、十分以上にその資格はある。芥川賞をとったって、一作で消えた作家は沢山いる。それに比べたら、太宰は、今でも、読み継がれている。芥川賞の五つや六つ、あげてもいい。太宰には、それだけの資格はあるよ。同時に、見沢氏にも三島賞をあげろよ。
今年は「太宰治生誕100年」だ。故郷の青森県五所川原市では、「“走れメロス”マラソン」が開催された。又、「太宰治検定」が行われた。「検定」は70点以上が合格だ。又、「“走れメロス”マラソン」は、大事な恋人や子供、親、親友を人質にとる。時間までに到着しなかったら殺す。そういう過酷なマラソンだ。凄い。と思ったら、違う。「人質」はなしだ。ただ、走るのだ。じゃ、「走れメロス」は何なんだ。
でも、「太宰治生誕百年」で、日本中をあげての大騒ぎだ。又、今年は、「見沢知廉生誕50年」だ。それを記念して、阿佐ヶ谷ロフトで展示、トーク、芝居が行われる。次の「見沢知廉生誕百年」では、「見沢知廉検定」が行われるだろう。その時は、私が問題を作ってやる。それに、「“天皇ごっこ”マラソン」も行われる。皇居の周りを走るのだ。「“囚人狂時代”マラソン」もいいな。いやいや、「母と息子の囚人狂マラソン」だよ。母子で足を結び合って、二人三脚で走ってもらう。千葉刑務所から府中刑務所までだ。いいねー。又、「査問ゲーム」というのを作ってもいい。夢が膨らむ。
では、この辺で終わる。あとは実際に、この小説を読んで、堪能してほしい。そして、「危険な恋」をあなたも実行してみたらいいだろう。
最後に蛇足ながら。この小説では、政治集会や活動家の描写が甘いという批判もある。しかし、それは当たらない。作者は、見沢氏と共に、嫌というほど、その手の集会には出ている。その手の人々にも会っている。いくらでも詳しく、リアルに書ける。しかし、あえて書かない。それでは単なる政治小説になる。あるいは、下手をしたら、政治プロパガンダになる。それを避けたのだ。いくら詳しく書いたところで、一般の人々には興味はない。かえって、ひく。だから、サラリと、きれいに流し、「ユキオとノリコの究極の愛」を中心に描いたのだ。
この小説に出てくる人々は、トモエ、村田、加藤、中澤、そしてユキオの弟子…も、皆、リアリティがある。懸命に生きている。命を燃焼している。ひたむきだ。でも、それだけでは読者が疲れると思ったのか、1人の「狂言回し」を登場させた。まァ、ピエロのようなものだ。たとえば、サーカスを見に行く。空中ブランコや、ナイフ投げや、綱渡りなど、ハラハラ、ドキドキだけだと心臓に悪い。それで、ホッと息抜きできるピエロが登場する。それと同じだ。アホな男がこの小説には登場する。右翼団体「神泉会」会長の日暮だ。この男だけは姓しかない。名前はまだない。名前をつけるまでもないと思ったのか。「日暮」と書いて、「ひぐらし」と読む。思想もない。覇気もない。ただ、年がいってるだけで、右翼の会長だ。無気力で、「その日暮らし」だ。そして、もう「終わった人間」だ。だから、暮れなずむ夕暮れだ。日暮(ひぐ)れだ。夕方だ。『夕刻のコペルニクス』という本があった。それを見て、高田文夫さんが、じゃ、俺は『朝刻のミケランジェロ』を書く!と言っていた。「朝刻」と「彫刻」をかけたんですな。面白い。
ところで、この名前のない、姓だけのボーッとした男は50代。独身だ。築100年の木造アパートに猫と2人で住んでいる。「じゃ、ホモじゃないの」とノリは思うが、「そんなことはない。ロリコンで変態だし」とユキオが庇う。どこが「庇っている」のか分からないが。会長なのに誰からも尊敬されない。ユキオは言う。
「それでも昔は下っ端に煙草とかつけさせたりしてブイブイ言わせてた時期もあったんだけど、例の『事件』以来、すっかりおとなしくなっちゃったからなあ。あれじゃ若い連中からブーイングが出るのも無理ねえよ」
昼行灯(あんどん)と言われるが、忠臣蔵の大石内蔵助のような力量はない。でも、そう勘違いする人もいる。この男は、笑っても、目だけは笑わないからだ。(そんな器用なことが出来るのか)。まぁ、ダラ幹ですな。勿論、本も読まないし、思想もない。人当たりの良さだけで右翼の会長だ。しかし、こいつには、とんでもない〈秘密〉がある。変態だ。セーラー服フェチなのだ。それにマゾだ。女王様に踏んづけてもらい、ムチ打ってもらって喜ぶ。痛いことをされて喜ぶなんて人がいるのか。信じられない。
勿論、小説だし、フィクションだ。でも、ここだけは〈真実〉だと思う人がいる。それだけ迫真の描写なのだ。この本は、見沢氏をモデルにしているが、ノリにしろ、トモエにしろ、フィクションだ。だ。小説だ。ピストルをノリが撃つ場面も、再度、〈査問〉をやる場面も、切った指を冷蔵庫に保存している場面も、全ては小説だ。「おう!凄い。サスペンス小説だ!」と皆、思って読んでいる。小説と分かって堪能している。しかし、なぜか、日暮ダメ男の「変態シーン」だけは、本当と思う。(この本では、「日暮」と姓しかないが、きっとこんな名前だろう)。この男の「人徳(?)」なんだろう。「あいつなら、やりかねない」「きっと、本当だよ」と思わせる。小説家・佐伯紅緒の力だ。たいしたものだ。怖い。
日暮ダメ男は、変態のくせに、女が5人もいる。こんな変態じゃ、女は皆、逃げる。1人だって、いないよ。現に、ノリも変態プレーを強要されて、絶望し、逃げる。冷静に考えたら分かる矛盾なのだが、何故か、「うん、ありうるよな」と思ってしまう。作者の筆の力だ。私も読んでいて、すっかり信じてしまった。
10年前(1999年)、板坂剛が『アントニオ猪木殺害計画』(夏目書房)という本を書いた。それにも、この日暮ダメ男は出ている。(別の名前で)。右翼の会長だが、プロレス好きで、マゾだ。縛られ、逆さ吊りにされ、女王様にムチ打たれて歓喜の涙を流す。もしからしたら、それを読んで、佐伯さんはヒントを得たのかもしれない。でも、逆さ吊りにしてぶつなんて、まるで特高の拷問じゃないか。三浦綾子の『銃口』のようだ。だったら、拷問死した左翼の人々の苦しみを自分も受けてみたいという高貴なる欲求なのか。まるで、キリストのような人だ
それに、この佐伯紅緒さんの本が小説だということを、それも優秀な小説だということを証明する本がある。元公安の泉修三が書いた『スパイと公安警察』(バジリコ株式会社)という本だ。サブタイトルは「実録・ある公安警部の30年」だ。この中には、見沢氏の査問事件が詳しく書かれている。「死体なき殺人事件」として、やたら詳しい。この時、「神泉会の日暮」の家をガサ入れ(家宅捜索)した話が出てくる。何度もしたらしい。ある時、日暮は、あわてて、「黒革の手帳」を隠した。ゴミ箱に入れたのだが、公安は見つけた。秘密の計画などが書かれていた。そんな発見をやけに自慢げに書いている。でも、これは本当は単なる電話帳だったらしい。知り合いに迷惑がかかってはいけんと思い、捨てようと思ったが、見つかった。そんなことはよくある。しかし、よほどの大事のように元公安は書く。又、他の元公安も、日暮の家にガサをかけた時のことを書いていた。ピストルやヤクを必死に探した公安もいた。勿論あるはずがない。こんなガサ入れは、しょっちゅうあった。
もし、日暮の家にセーラー服や変態プレー用の縄、ムチ、ローソク、マスク、女王様コスチュームなどがあったら、元公安たちは大々的に書いてるよ。鬼の首を取ったように書き立てる。右翼中に触れ歩くよ。いくらアホの日暮ポニョ男だって、そんなことはやるはずがない。
あっ、いかんな。小説なのに、熱くなって反論しちゃった。それに何で私がムキになるんだろう。関係のない人なのに。日暮ダメ男にしろ、日暮ポニョ男にしろ、知らない人間だ。
ともかく、それだけ迫力があり、迫真力がある小説だ。間違いなく三島賞を取るだろう。凄い小説だ。うまい小説だ。革命小説だ。又、革命をテーマにした恋愛小説だ。ただ、それだけだと小説が重くなるので、日暮ポニョ君を創作し、狂言回しにした。又、現実の、査問、リンチの凄惨な迫真力を薄めようとして、プレイとしての「査問・リンチ」ごっこ(=マゾプレイ)を対置してみせたのだろう。巧みな構成だ。このモデルはこいつだ、と思われた人間こそいい迷惑だろうが。でも、そいつは、怒る気力すらない「世捨て人」だ。文句なんか言うはずがない。そう見定めた作者の力量もさすがだ。
小説のラストで、見沢氏、いや、ユキオは死なない。ピストルで撃たれても、脱出する。007のようだ。きっと、続編が出るのだろう。楽しみだ。
それにしても小説家はいい。小説だ、といえば全ては許される。私も、書きたい。でも無理だな。力がない。もし、書くとしたら、この日暮ダメ男君を主人公にして書く。なぜいつもニコニコしてるのか。なぜ、目だけは笑わないのか。そして、例の2つの未解決殺人事件との関係は。その謎を探るべく、ノリはロスに飛ぶ。あの事件との意外な一致点、関連を発見する。そして、モナコ、ピョンヤンへと飛ぶ。証拠を探して、再度、この男に近づき、射止める。そして、驚くべき真実を探り当てる。それは…。
でも、小説のつもりで書いていても、ついつい自分の「犯行自白」になってしまうかもしれない。それは怖いな。じゃ、やったことはないけど恋愛小説でも書くか。
①7月13日(月)一水会フォーラムの時です。講師は「金正日の料理人」藤本健二さん(右から2人目)でした。超満員でした。この日は、『彼、ときどき、テロリスト』を書いた佐伯紅緒さん(藤本さんの隣り)も来てくれました。又、この本の発行に力を尽くしてくれた康芳夫さん(左)も来てくれました。康さんは猪木vsアリ戦の仕掛け人で、沼正三の『家畜人ヤプー』を出版した人です。又、最近では浦沢直樹の漫画『20世紀少年』のキーマン、万丈目胤舟のモデルとしても有名です。
⑧今、渋谷のuplinkで田中幸夫監督のドキュメンタリー映画「Pak Poe」が上映されています。感動的な映画です。驚きました。凄い男だと思いました。初日にはミニコンサートもありました。久しぶりに会いました。
⑩この日、三上寬さん(歌手)と会いました。又、南伸坊さんにも久しぶりに会いました。菅孝行さん、上野昂志さんなどにも会いました。平岡さんはとても交友の広い人でした。著書の何冊かが置かれてました。120冊以上の著書があるそうです。
⑬7月9日(木)映画「靖国」をめぐる問題についてのシンポジウムで。映画「日本国憲法」の監督、ジャン・ユンカーマンさんと久しぶりに会いました。一昨年、ニューヨークでやった憲法9条をめぐるシンポジウムでも一緒に参加しました。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉