「大杉栄メモリアル」の翌日、9月13日(日)、田宮高麿さんのお墓参りをした。そして、住んでいた所を訪ねた。「大杉栄メモリアル」は新潟県新発田市で開催され、私が講演をした。新発田は大杉栄が4才〜14才までの10年間、暮らした所だ。自分の「故郷」だと言っている。そこで毎年、「大杉栄メモリアル」が行われている。
この新発田市は、実は田宮高麿氏の故郷でもある。「よど号」グループのリーダーだ。1970年3月31日に、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に飛んだ赤軍派のリーダーだ。田宮家のお墓は瑞雲寺にある。そこに田宮高麿さんも眠っている。「大杉栄の会」代表の斎藤徹夫さんが案内してくれた。そして、瑞雲寺のご住職さんの山口哲夫さんに紹介してくれた。今年、75才。とてもお元気だ。親切にいろいろと話してくれた。
1970年のハイジャック事件の時は、大変だったという。実家に石を投げ込む人間がいる。又、連日、マスコミが押しかける。それはずっと続いた。又、警察も毎日のように来る。関係者が「連絡」に来るのではと見張っている。さらに田宮高麿さんが北朝鮮で亡くなり、お兄さんが遺骨を取りに行き、帰国した。それでも、警察やマスコミは押しかける。「仲間が連絡に来るのではないか」と。実家だけでなく、お墓のある瑞雲寺にも聞き込みに来る。
「実は一度だけ、お仲間と思われる人が数人でお墓参りに来ました。名前は聞きませんでしたが」と、ご住職さんは言う。実家なら、もっと大変だったろう。お父さんも心労が重なって大変だったそうだ。お寺には田宮家代々の墓があるし、高麿さんの墓もある。だからお父さんはよく来ていた。
1972年の連合赤軍事件の直後だった。お父さんは、「北朝鮮に行っていてよかった」とボソリと言った。国内にいたら、同志殺しの連赤事件に巻き込まれていた。それよりは、北朝鮮に行っていてよかったというのだ。あるいは、田宮さんが日本にいたら、あの事件を止められたかもしれない。それは分からない。しかし、父親としての正直な気持ちだろう。
それにしても、ハイジャック事件の時は、どんな気持ちだったのだろう。怒ったのか。悲しんだのか。もう、お父さんも亡くなっていて、それを聞くことは出来ない。残念だ。
と思っていたら、「実は、お父さんの歌集があるんです」と、斎藤氏が言う。まさか、と思った。そんな話は聞いたことがない。出版されたことはない。でも、出たという。書店には一切出してない。自費出版で、ささやかに出したという。数百部だろう。
お父さんは農林省の役人をやっていた。その頃から、俳句も短歌もやっていた。亡くなってから、子供たちが、それをまとめた。自費出版だ。そしてお世話になった人や友人、知人にあげた。新発田市の図書館にも1冊だけ寄贈した。それを斎藤氏が借りてきて、私に見せてくれたのだ。貴重な本だ。パラパラとめくってみたら、アッと思った。高麿さんのことが書いてある。何首も、何首もある。もしかしたら、これは高麿さんに捧げた歌集だ。他の何気ない歌も、全て高麿さんを詠んだ歌に思える。
「これ貸して下さいよ。東京で全部コピーして、すぐ送り返しますから」と頼んだ。素晴らしい歌集だ。とりあえず、高麿さんを詠んだ歌、それに気になった歌などを抜き書きしてみた。
この歌集は『よろぼし』と題が付けられている。そして「田宮高晴遺歌集」と書かれている。
昭和44年(1969)から昭和55年(1980)までの10年間に詠んだ歌をまとめた歌集だ。高晴さんは昭和55年7月14日、72才で亡くなっている。その翌年、昭和56年5月に、子供たちが中心になって、この「遺歌集」を出した。
「これ貸して下さいよ。東京で全部コピーして、すぐ送り返しますから」と頼んだ。素晴らしい歌集だ。とりあえず、高麿さんを詠んだ歌、それに気になった歌などを抜き書きしてみた。
亡くなった時、勲四等旭日小綬章を授与され、正四位に叙される。農林省時代の貢献を表彰されたのだ。尚、講談社刊『昭和万葉集』に「跫音の如くかそけく木の実降る峠越すとき吾子のまぼろし」(巻16)、「何故に吾子朝鮮に翔びたるや六十年安保よりのサイクル」(巻20)の二首が採録される。
田宮高晴さんは明治41年(1908)、新発田市大栄町7の9の25に、父高義、母スヱの長男として生まれる。盛岡高等農林学校を卒業後、農林省に入る。四男一女を得る。男の子供たちは皆、高がつく。長男高宏、次男高皎、三男高紀、四男高麿だ。長女は信子。昭和15年、32才頃から俳句を作るようになる。そして、昭和43年(60才)、この頃から短歌を作るようになる。そして、新潟日報歌壇、朝日歌壇等に投稿し、度々入選する。
なお、歌集の『よろぼし』は、能の曲名から来ている。「あとがき」で中山礼治さんが書いている。「よろぼし」(弱法師)である。河内国高安を領した左衛門通俊が、譫言を信じて放逐した一子俊徳丸に、四天王寺の西門でめぐり逢う。俊徳丸は盲母の乞食法師となって、人々から弱法師とあざけられているが、零落の境遇で澄みきった諦念に生きる美少年としてとらえられている。
〈いにしへゆ帰らぬ子持つ親はあり
おぼろ月夜に「弱法師」謡ふ〉
そして、中山さんは明言する。
「あの事件が起こってからは、田宮さんは、自分達親子と「弱法師」がぴったり重なっていたに違いない」
そうか。やっぱり、高麿さんに捧げた歌集だ。それに、この歌集は、もう一つの「よど号事件」だし、その貴重な記録だ。では、紹介しよう。高麿さんを詠んだもの。又、関係のありそうな歌。直接関係はなくても、高晴さんの気持ちがよく出てるものを、自分で選んでみた。
(昭和44年)
この年から歌は始まっている。しかし、この年には高麿さんを詠んだ歌はない。
(昭和45年)
この年の3月31日に、ハイジャック事件が起きる。しかし、この年も、高麿さんを詠んだ歌はない。
(昭和46年)
遠く行きて帰らぬ子ありかの山の城址霞みて鮒釣れはじむ
さる年に吾子を裁きし裁判所堂島川に秋の影落とす
跫音の如くかそけく木の実降る峠越すとき吾子のまぼろし
(昭和47年)
春の夜の夢に立ちたる罪の子の幼き顔よ笑(ゑ)くぼすらみせて
手錠の子のつびきならずおらびけり春なほ寒ききさらぎの夢に
罪の子のあれから二年夏も果てなほも脳裡に飛翔の軌跡
(昭和48年)
わが罪の子が住むといふピョンヤンの雪の深さを妻と偲べり
真夏の夜テレビの吾子を見据ゑたり三年を経たる罪の子の顔
官吏とは政府機能の歯車よその歯車の使ひ捨てわれは
大道の易者がわれをそつとよぶ心の底を見透かせるごと
わが書棚の独占資本論のぞき見て父さんやるねとかの日言ひにき
罪の子を育てし父と母にして余生といふを虔(つつし)み過す
五年前ふと来て去りし罪の子の肌着洗ひてここにあり今も
(よど号事件の前、田宮高麿さんは大阪市立大なので大阪に住み、運動の関係で東京にもよく行った。実家の新発田には、たまに帰省していたようだ)
(昭和49年)
正月が来れば偲ばゆ罪の子の住むといふ国雪のまぼろし
いにしへゆ帰らぬ子持つ親はありおぼろ月夜に「弱法師」(よろぼし)謡ふ
(この「よろぼし」が歌集の題になっている。帰らぬ子を持つ親の気持ちをあらわしている。だからこの歌集は、北朝鮮に行った高麿さんに捧げた歌集なのだ)
これよりは飛騨路とぞいふ国境峠に経てば呼子鳥鳴く
訪ね来る刑事は親に罪なしと短歌の話われにさせむとす
ゆきずりの地蔵の貌にふと見たり心に棲める吾子のまぼろし
(何を見ても息子・高麿を思い出すのだろう。ここに書き抜いた歌だけではない。この歌集にある353首全てが、息子・高麿を詠んだ歌なのだろう)
やほよろづの神ましまさず妻の神も留守なる夜ぞひとり酌まうか
マッチ擦るほむらを囲む掌が透きて夜霧の中に男佇ちたり
(全てが高麿さんを詠んでいる。又、寺山修司や野村秋介さんにも似た歌がある)
何故に吾子朝鮮に翔びたるや六十年安保よりのサイクル
ひぐらしのかなかなと鳴き出せば罪の子思ふいかに生くるや
(昭和50年)
親と子の情にへだてのなき汝を罪の孤絶に遣りしものなに
笑くぼすらみせて立つなる罪の子の肩ひきよせて抱けば夢かも
この戦争危しと父洩らしにきガ島戦線撤収のとき
終戦に憮然とゐしが父の頬に安堵の色の浮かべるも見き
聖戦の旗幟を掲げ米集め米配りたりき農林技師われは
父恋し父よ恋しと鳴くといふ蓑虫あはれ糸に垂りつつ
その国に松風高く吹くあらばわが「松風」を聴けよ罪の子
年逝くを妻と語ればおのづから逆縁の子の齢(よはひ)に及ぶ
(昭和51年)
居睡りてわれに凭(もた)るる他人(ひと)の子に罪の吾子を偲ぶ夜汽車に
除夜の鐘終りときに大いなる欠伸せりけり68歳
(ということは、ハイジャック事件の時は62才だったのか。62才の父と27才の「罪の子」だ。それ以来、ずっと、思い続け、詠い続けている。親の愛だ。これはもう、「同志愛」かもしれない)
お地蔵の額にクルス彫られゐて切支丹村の紅葉明るし
(お父さんはクリスチャンではない。ただ、かなり関心はあったと思う。だから、こういう歌も詠む。「罪の子」という表現も、キリスト教的だ。「罪の子」と言ってるが、本当はそうは思ってない。いわば「謙遜」だ。たとえ、国民の全てが批判しようが、自分だけでも、「罪の子」といわれる吾子を守る。愛している。そういう決意だ)
言ふならば銃後の意気に燃えゐたり供米奨(すす)め村駆けしわれは
供米に一肌ぬぎし若き農征きて遺骨となりて戻りき
(昭和52年)
目には目を歯には歯といふくだり読みやうやく老の疲れを覚ゆ
世の中のさまも変りて「限りなく透明」といふ小説も読む
(昭和53年)
来し方のわが曲折を憶ふとき川は真直ぐに改修されぬ
離れ住む五人の子らを語りつつ初夏の一夜を妻に酌さす
デパートの鏡にふとも見たる顔いみじくも父の晩年に似る
行きしまま帰らぬ吾子よ十三夜今宵の月は汝も見るべし
(昭和54年)
いつまでも五歳隔てて蹤(つ)いて来るこの老い妻を旅に誘(いざな)ふ
沈黙を湛へて広くみづうみはみづうみなりに冬迎ふるか
(昭和55年)
老い妻と抱きあふごとくテレビ見きわが子が乗取り籠る飛行機
(何度も何度も、「よど号」事件は特集され放送された。それを全部、見ていたのだろう)
はるばると託されて来し罪の子の見覚えの文字辿り妻泣く
(事件から10年も経って、やっと手紙が届いた。それまでは連絡も出来なかった。これからずっと後になると、自由に手紙も出せるし、電話で話せるようになる。肉親も訪朝できるようになる。だが、お父さんの生きてる時は、それがかなわなかった。残念だったろう)
夢の中に夢をみてゐる夢をみてはてしもあらぬ老の春眠
(ハイジャック事件も夢だった。そんな夢を見てたのかもしれない。まるで荘子の世界だ)
その眼にてこの世を知らぬ老瞽女(ごぜ)が世の哀歓を聴かせて呉るる
菩提寺の僧とし酌めば言うてやるまだまだ貴僧の世話にはならぬ
これが最後の歌だ。そして昭和55年7月14日、亡くなられた。72才だった。ピョンヤンに行った「よろぼし」の息子とは会えなかった。この歌集の巻末には、お父さんの略年譜が附されている。これによると、亡くなったのは胃癌のためだという。
ここで再び、田宮高晴さんの「年表」に戻る。高晴さんは明治41年(1908)、新発田市で、父高義、母スヱの長男として生まれた。父・高義さんは教育者だったという。高麿さんのおじいさんだ。高麿氏は、昭和18年(1943)、1月にこの新発田市で生まれている。私と同じ年だ。この時、父・高晴さんは35才。
ところで、高麿さんのおじいさん(高義)が住んでいた頃、この家から10メートルばかり離れたところ(もう、隣家といっていい)に、やはり教育者で小和田さんという人が住んでいた。そうなんです。小和田雅子さまのおじいさんだ。教育者同士でもあったし、親しくお付き合いをしていた。「孫が出来たら、結婚させようかね」という話もしたかもしれない。仲のいい友人だった。しかし、小和田家は転居。子供たちも、お孫さんも別々になった。
田宮家のお孫さんはハイジャックして大空高く飛び立ち、異国に行った。小和田家のお孫さんも、大空高く飛び、雲の上の人になってしまった。新発田は歴史に残る凄い人たちを生んでいる。他にも新発田は多くの人々が出ている。それは又、あとの話に…。
〈天皇制と民主主義は両立するのか。天皇制は民主主義の例外か。民主主義の欠陥を補うものか。あるいは、完全な民主主義実現のためには廃止すべきものか。天皇制を「休む」という選択肢も含めて危ないテーマについて考えてみる〉