東北学院榴ヶ岡高等学校が創立50周年を迎えた。その記念式典と同窓会が仙台サンプラザで行われた。私は1回生だから、50年前に高校1年だ。それから50年か。感慨深いものがある。
ミッション・スクールだから、記念式典の前に、「記念礼拝」がある。清々しい。身が引き締まる思いだ。礼拝オルガニスト・小野なおみさんの奏楽による前奏「われ汝を呼ぶ、主イエスキリストよ」が流れる。そして皆で立って、讃美歌234Aを歌う。「神の国」だ。50年前の高校創設を想い出し、祝い、そして現在を考えるのに、これほど、ピッタリの歌はない。
久しぶりの讃美歌で感動した。胸が一杯になった。会場のサンプラザは巨大なホールだ。仙台で一番大きいだろう。1階は在校生。そして2階、3階は父兄、そして50年間の卒業生だ。この50年間に1万人以上の卒業生がいる。そのうち1割近くが集まった。
讃美歌を歌いながら気が付いた。3番だ。「思想の波はあいうてども」とある。当時は全く気が付かなかった。高校1年じゃ、「思想」という言葉も意味が分からなかったろう。思想の波はあいうち、まるで、この後の私の運命を予言しているようだ。そして、「すべての物を超えてすすむ 主イエスの国は 永久に栄えん」とある。右翼も左翼も激突し、争うが、その左右を超えた地点にクニオ君は立つ。ということだ。私が主イエスの「愛の国」をつくるのだ。50年前から、そう言われていたのか。今、やっと気が付いた。
讃美歌のあとは、「主の祈り」だ。毎日、このお祈りをした。「天にまします我らの父よ、願わくばみ名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ」で始まる。知ってる人も多いだろう。少しあとにこういう言葉がある。
「我らに罪をおかす者を我らがゆるすがごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」
そうか。これが私の心の底にずっとあったのかと、気が付いた。あまり他人と争いたくない。他人を批判し、罵倒してまで自分の主張を伝えたくない。そう思うのは、この「主の祈り」が心の底にあったからか。そう気付いた。
讃美歌をうたった後も、「主の祈り」のあとも、「アーメン」で終わる。あの頃は毎朝、こうして礼拝をしてたんだな、と思いだした。
それから宗教主任の西間木順先生が「新約聖書」の中の「ヘブライ人への手紙 11章13節」を読む。これもいい言葉だ。深い。
〈この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者てあり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです〉
そして、祈祷がある。
そのあとは、出村彰先生(宮城学院理事長)による「説教」、「祈祷」「頌栄 541」「祈祷」と続き、「後奏 強き王なる神をほめまつれ」で終わる。
出村先生は、50年前の創立時から榴ヶ岡の「聖書」の先生だった。今は宮城学院の理事長だ。
出村先生は、最近、50年前の手帳を見つけたといい、榴ヶ岡校舎の入学式(1959年4月11日、午後2時)のことを語る。
〈その入学式での月浦校長のお祝いの言葉は、若造教師の私を驚かすに十分でした。「君たちは、この学校に入りたくて入ってきたのではないかもしれない。不本意ながらこの学校に入った者も少なくないだろう。しかし、そこに見えざる神の摂理の導きを見なければならない」と。
この「見えざる摂理の導きの手」とは、ほかならぬ東北学院の遠い信仰的始祖、今年、生誕500年を迎えた宗教改革者カルヴァンの言葉であることを、後になって知りました〉
エッ?と思った。確かに月浦校長の言葉の「前半」は覚えている。でも、「後半」は全く知らなかった。「見えざる摂理の導きの手」なんて初めて知った。月浦校長はそう言ったが、前半が余りに強烈で、僕らの〈事実〉そのものだから、グサリと胸に突き刺さって、50年後の今でも鮮やかに覚えているのだ。
あとで同級生に聞いたが、皆、私と同じだった。「『見えざる摂理の導きの手』なんて言ったかな?」と皆、言う。「君たちにお目でとうとはいわない。それは3年後に言う」と校長は言った。「そして、友人たちを見返してやれ!」と言われた。いや、それは後で他の先生が言ったのかな。ともかく、「君らは、県立高校を落ちて、ここに来たんだろう。だったら3年間、必死で勉強し、東北大学に入って、友人を見返してやれ!」と復讐心を煽り立てられた。そんな印象だけがあったんだ。
少し説明しよう。仙台は、県立一高、二高がある。女子は一女、二女、三女だ。これが、「いい高校」だ。あとは私立だが、グッとレベルが落ちる。(当時は。今は皆、レベルアップした)。東北学院は、中学、高校一貫で、その上に東北学院大学がある。高校からは入れない。しかし、ベビーブームで、一高、二高に入れない人も多く出る。「レベルの低い高校に行くよりは」と中学浪人する人が続出した。それで、「15の春を泣かせるな!」という言葉のもとに、学院高の「分校」が出来た。仙台の東の端、榴(つつじ)ヶ岡公園の傍にあったので、「東北学院榴ヶ岡校舎」と呼ばれた。初めは150人だった。3クラスだ。
全員が一高、二高を落ちた人間ばかりだ。敗者の集まりだ。敗者復活戦が私たちの高校生活だった。生徒は皆、手負いの虎だ。落ち込み、恨み、ひねくれている。1人として、「入りたくて入ってきた人」はいない。月浦校長はそのことを言っている。そして、「お目でとうは、3年後に預けておく」と言った。それだけを150人の生徒は覚えていた。50年間も。中には、実力があったのに、たまたま、その日、調子が悪くて県立を落ちた人間もいる。自分より出来ない人間が県立に入っていると恨んだ人もいる。そうした生徒たちが150人だ。
当時の榴ヶ岡校舎の写真が壁に貼られていた。掘っ立て小屋だ。元々は日本軍の兵舎で、その後、米軍の兵舎になり、それを譲り受けて、そのまま校舎にした。米軍兵舎だから、礼拝室もあるし、都合がよかったのだろう。3つの校舎と、職員室、それに便所、水飲み場で2棟だ。あとは礼拝室。勿論、平屋だ。米軍キャンプそのままだ。白いペンキのままで、塗り直してもいない。
門も塀もない。いや、ハリガネで囲った門と塀だ。だから、今見ると、何やら「捕虜収容所」のようでもある。先生は7人だったという。それが専従で、他に、週1、2回来る、音楽や美術などの非常勤講師がいた。高校に落ちて、恨み、気持ちが荒でいる。150人の「囚人」を7人の「看守」が厳重に監視し、さらに勉強させる。そんな感じかもしれない。ただ、看守と囚人の心は一つだった。いや、目的は同じだった。3年後の大学入試だ。先生たちだって必死だ。新設高校だ。「結果」を見せなくてはならない。「結果」とは大学入学者数だ。だから、徹底的に勉強させられた。
だから、かなりの数が東北大学に入った。一高、二高に並ぶ勢いだった。東北大に入れない人間も、他の国立大学や東京の私立に入った。
ところで私だが、実を言うと、正式な1回生ではない。といって、二回生でもない。その中間だ。でも面倒だから、「1回生です」と言っている。先週紹介した山田玲司さんの漫画にも出ていたが、3年の卒業間際に教師を殴り、退学になったのだ。でも、どこにも転校は出来ない。いろいろあって、半年間、懺悔のために教会に通い、次の年の夏に「卒業」させてくれた。たった1人の卒業式だった。この時の月浦校長の言葉は、たった一言、「やけになるなよ」だった。
それから上京して、予備校に通い、早大に合格した。長い長い地獄の生活を送り、やっと俺は自由を得た!と思った。自由を満喫し、徹底的に遊んでやろう、と思った。ところが、大学は左翼の天下だ。「日本を救うために、クニオ君、闘うべきよ!」と女の子に言われて、「スト反対」のビラを撒いたら、全共闘にボコボコにぶん殴られて。そのあとは復讐戦だ。ミッション・スクールの教えなど忘れて、右の頬を殴られたら、「左」を殴れ。とばかりに左翼と乱闘の日々だった。
そんな話をしていたらキリがない。高校の「50周年記念大会」に話を戻す。そんな私だから、同窓会なんて呼ばれないと思っていたのに。石もて追われたと思っていた。だから、案内が来た時は嬉しかった。僕らの時は、勉強、勉強で、厳しかった。規則も厳しい。制服のカラーが高いとか、ズボンが太いとか、タバコを吸って退学になった人間。カンニングや、街で女の子と話して退学になった人間など、1〜2割は退学になった。私は退学のあと、半年後に復学、卒業させてもらったから、幸せだったのかもしれない。勿論、男子だけ150人だ。まさに収容所だった。
しかし、その後、米軍兵舎から泉区に引っ越した。立派な校舎を建てた。でも名前は「榴ヶ岡」のままだ。そして今は服装は自由、さらに男女共学になった。じゃ、あの頃、服装のことや、女性と話しただけで退学になった人間はどうするんだ。「青春を返せ!」と叫びたいね。
「記念礼拝」が終わり、続いて、「記念式典」だ。生徒会長が開会宣言をする。女の子だ。あと「ふれあいコーナー」でやってたが、合気道の部長も女の子だ。女の子の方が成績もよく、行動力もあるんだろう。今は女子が三分の一らしいが、すぐに越されるよ。成績順にとったら、女子だけになる。そしたら、「東北学院榴ヶ岡女子高」になっちゃう。私は「女子高出身の右翼」だ。恥ずかしい。
学校長(久能隆博先生)の挨拶があり、主賓挨拶、…と進む。「感謝状贈呈」もある。母校のために貢献し、多額の寄付をした人たちだ。みんな愛校心に燃えているんだ。隣りの同窓生が言っていた。「毎月20万ずつ、匿名で送ってた人もいたらしいよ」。50年じゃ1億円以上じゃないか。偉いね。俺は愛校者だと公表せず、ひっそりと「愛校的行為」を実行する。本当の愛校者だ。愛国心もこうありたいね。
「でも何で稼いだ金だろうね。それに誰だろうね」「それは俺だよ」と言いそうになって、やめた。いや、いや、自分なら、大声で言い、「早く表彰してくれ!」と言うだろうな。人間が出来てないから。
表彰式が終わって、「校歌」だ。うん、懐かしいなと思った。そこまでは気分的に余裕があった。ところが校歌を歌い出すと、いけない。ドッと涙があふれてきた。声にならない。歌えない。いい思い出なんか全くないのに、何故なんだ。苛められ、石もて追われた学校のはずだ。それなのに校歌を歌い、泣いている。「いい思い出もあったじゃないか」と必死に、懐かしい思い出を探している。いい高校だから愛するんじゃない。ともかく、そこに私はいた。苦しんだ。学んだ。それだけで愛している。これが本当の「愛校心」かもしれない。愛国心だってそうだ。たまたま、そこに生まれた。それだけで愛するのだ。輝かしい歴史もある。反対に、暗い歴史もあったろう。それらを全て、抱きしめて愛するのだ。
そう、そういう「愛国心」に考えついたのも、この高校生活があったからだろう。そう思った。
校歌は5番まである。1番はこうだ。
「若人われらの理想の国は 青葉の都よ ああ東北学院
※(おりかえし)
世の光 わがほこり いざほめよや 友よ もろごえあわせて われらの学院」
気が付かなかったが、3番はこうだ。
「いくよ培(つちか)いし大和心
神の愛に咲く ああ東北学院」
えっ?「大和心(やまとごころ)」なんて言葉があったのか。50年にして、初めて気が付いた。だから、私が生まれたのか。
式典は、ミッション・スクールだから、讃美歌と聖書が中心だ。壇上には国旗はないし、国歌も歌わない。それが、爽やかでいい。まず、身近な所を愛せなくて、一挙に「国を愛する心」と言われても、国だって困るだろう。
1時半に始まって、記念礼拝、記念大会と続き、2時半からは「記念講演」。何と、フリーアナウンサーの生島ヒロシさんだった。「チャレンジから来年が見える」と題して、1時間話す。プロだけに話がうまい。つい聞き入ってしまった。あれっ、生島さんも学院卒かなと思ったら、宮城県の気仙沼高校の卒業だった。終わって、楽屋に会いに行った。「あっ、鈴木さん、久しぶり」「でも、どうしてここにいるの?」「ここの1回生ですよ」と言った。この時の再会は生島さんもご自分のHPで書いておられた。ありがたいです。
この「記念講演」のあと、30分休憩。そして、「現役生と卒業生の触れ合いコーナー」。在校生の絵画が展示され、隣りの部屋では音楽部、合気道部、ダンス部の発表会がある。女の子が多い。カラフルだ。俺達はモノクロの世界に生きてたんだ。色はなかった。それが、今は、カラーの世界なのかと実感した。
午後6時半から、祝賀会。いろんな人から声をかけられた。「たかじん、見てるよ」という人ばかりだ。仙台でも放映してるんだ。「でも何で、来たの? 仕事ですか?」と聞く。「1回生だよ」と言うと、ビックリしていた。「あっ、鈴木さん」と校長先生に声をかけられた。「お噂はいろいろ聞いております。榴ヶ岡の伝説的な人で…」と言う。「私ごときを呼んでもらってありがたいです」と言った。それに、「50年の輝かしい歴史を私一人で汚しているようで申し訳ありません」と謝罪しました。
そうそう、榴ヶ岡出身で最も有名な人が来ていた。漫画家の荒木飛呂彦さんだ。人気漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の作者だ。会って聞いたら第17回生だという。私よりも17才も若いのか。それと、この日は来てなかったが、映画監督の田代廣孝さんも17回生なんだ。この人は昔、会ったことがある。彼が監督したルビー・モレノ主演の「あふれる熱い涙」のパンフレットに推薦の言葉を私は書いた。
さて、祝賀会だ。多くの人々に声をかけられ、沢山話した。100枚持って行った名刺も全て無くなった。河北新報や、仙台放送、七十七銀行、県庁に入ってる人もいる。そこでは「TG(東北学院)会」というOB組織もある。県警にもあるそうだ。じゃ、「一水会TG会」を作ろうかな。前に、榴ヶ岡の卒業生がいたし。
喋ったり、飲んだり、食べたり、写真を撮ったり。そして昔の写真がスライドで映される。あっ、ボロイ校舎だったな。冬はストーブに薪をたいてたな。傾いた校舎と、砂ぼこりの舞い上がる校庭。廊下も土だったんじゃないかな。と思い出した。北海道に修学旅行に行った時の写真も映し出される。今と違って、ビデオがないから、動画はない。それがかえっていい。50年前の昔に、ピタリと静止している。
そんなことを思っているうちに閉会だ。「クニオ、次はオメが記念講演やればいいのに。学校さ言ってやるが」と同級生。私なんか「学院の恥」だからダメですよ。でも次って、いつだ。今年50年だから、次は100年か。50年後だな。生き残ったら、話が来るかもしんないな。それまでは捕まらないようにしておこう。
「クニオ、テレビ見でっけど、オメ、オドなしな」と言う同級生もいる。「んだって、クリスチャンだもん。3L精神だべした」と私も訛って答えたべさ。3L精神とは東北学院の精神で「Life Light Love」なんだ。いい言葉だ。私も謙虚に「地の塩」になろうと思ってるでがすよ。
それから、1回生だけで、仙台の夜の街へ。カラオケのあるスナックだった。「俗っぽい歌じゃ、つまない。心が汚れる。讃美歌をうたいたい!」と私が言ったら、「んだば、やるべ」と言って東北学院大学の鶴本教授が鞄からハモニカを出して伴奏を吹く。偉い。こういう時の為に、ハモニカを持ち歩いているんだ。そして、皆で、讃美歌をうたいました。
12時になったので、「ホデルさ、かえんなぐっちゃ」と言ったら、「岩間の店さ行くべ−」と連れて行かれた。「あっ、鈴木さん」と言うが、こっちは分からん。卒業アルバムを持ってきた人がいて、それを見て、やっと分かった。「ほう、岩間君も偉くなったんだね。飲み屋の店長か」といった会話をかわしたが、やけに女の子が多い。クラブなのかな。いや、もしかしたら、これが噂に聞く、キャバクラかもしれない。でも私はヘベレケに酔っていて記憶がない。皆で、「若人 われらの理想の国は…」と校歌をうたっていた。そこで記憶が途切れた。その後、気が付いたら、翌11月14日(土)だった。朝一番の新幹線で東京に向かっていた。
おわり。アーメン。
①11月13日(金)午後1時半より。仙台プラザホテル。「東北学院榴ヶ岡高等学校創立五十周年記念式典・祝賀会」で。久しぶりに、同級生たちと会いました。ここにいる人たちは、50年前入学の1回生です。皆、元気ですわ。
②現在の校長・久能隆博先生(左から2人目)を囲んで。校長先生は七回生だそうです。私たちの後輩です。でも校長先生です。榴ヶ岡の卒業生には学院大や学院高校に勤めた人が多い。又、子供たちを榴ヶ岡に入れた人も多い。3割以上だという。皆、愛校心があるんだ。うちの子も入れよう。でも、又、退学になったりして。
⑤これが50年前の榴ヶ岡校舎です。中央の小さいとこが礼拝堂。その後ろが教室。米軍のバラック兵舎のまま、使ってました。㊦は、学校の入口です。まるで鉄条網で囲まれた捕虜収容所ですね。そんなことはないのですが、余りに粗末なので、一見、そう見えます。
⑧PANTAさん(中央)、木村三浩氏(右)と。11月12日(木)、夜8時から映画「ドキュメンタリー 頭脳警察」の上映記念トークで。渋谷の「シアターN渋谷」で。重信房子さんから届けられた花束の前で。素晴らしい映画です。皆さんもぜひ見て下さい。5時間の超大作です。私は2回も見ました。
⑫11月14日(土)午後6時半より。池袋の東京芸術劇場。劇団東京ミルクホールの「水晶の夜。『グーテンターク!私たち、日本のとある元祖有名少女歌劇団です』」を見る。終わって、代表の佐野崇匡さんと。豪華で素晴らしい舞台でした。ヒトラーの「水晶の夜」の時、実は宝塚が日独友好で行ってたんですね。その歴史を基にした芝居でした。余りに素晴らしいので、皆に電話して、「見ないと損をするぞ」と教えてやりました。原作となった本を2冊買いました。岩淵達治『水晶の夜、タカラヅカ』(青土社)と、岩淵達治戯曲集『雪のベルリン タカラヅカ』(カモミール社)です。本も面白いです。
⑬11月15日(日)代々木競技場第二体育館へ。「2009 北斗旗トーナメント 第3回世界空道選手権大会」。主催の大道塾師範・東孝さんと。「おととい、生島ヒロシさんに会いました」と挨拶した。東さんも気仙沼高校で、親しい。この日は仕事で来れないと言っていた。パンフには祝辞を寄せていた。その下にはGACKT(ミュージシャン)の祝辞が。「GACKTは去年は来てたんだよ」と東さん。GACKTの祝辞を見て驚いた。この大会の意義とお祝いを述べ、次にこう書いている。
「僕自身もアーティストとして、一人の男として、様々な要求に応えられるように身体と心を鍛え、自宅に武道場を設けテコンドーの師範達を招いて毎日数時間のトレーニングを続けています」
⑭これを読んで、ブッ飛びましたね。凄い男だと思いましたね。そこに夢枕獏さん(作家)が通りかかったので、「獏さんも自宅に武道場を作ったら。本が売れてるんだし」と言ったら、「サンドバッグはありますけどね」。それで毎日、キックの練習をしてるんだ。サブミッション・アーツ・レスリングの麻生秀孝さんも、「個人で武道場を持ってる人は他に聞いたことがないね」と言っていた。ハリウッドの俳優ならいるかもしれないが、日本じゃ、GACKTだけだろう。私も自宅に武道場が欲しい。本が売れて、リッチになったら、作ってやるよ。
⑮11月15日(日)午後5時からでしたが、私は遅れて6時過ぎに行きました。上野の「音音」で(秋田県湯沢市立)湯沢中学校の同窓会。「オラはおととい高校の同窓会に出てきただよ」と報告した。中学から高校に行った人は半分もいないそうだ。大半は集団就職で東京、関西に行ったとのこと。このところ忙しくて、疲れてウトウトしてたら、「目、あげろ!」「寝でんな!」とオバさんたちにどつかれました。「本当は、この人、恐い人なんだよ」と隣りのおじさん。「何が恐いか、クニオの野郎っこが」と又、どつかれました。おばさんには恐いものはない。おばさん無罪だ。