歴史的なイベントが2日間、続きました。12月13日(日)は「南京映画」のシンポジウムに出ました。決死の覚悟でした。そして翌14日(月)は一水会フォーラムの講師です。こちらも、別の意味で心配しました。今まで、超ビッグな講師ばかりです。僕なんて「内輪の人間」が講師じゃ、人が集まらないよ。誰か他の人にしてくれよ。私は前座で5分位喋るから、と言ったのですが、押し切られてしまいました。でも、超満員でした。「鈴木が講師じゃ、人が集まらんだろう、かわいそうだから行ってやるか」と思った人が多かったんでしょう。優しい人々に見守られて、ありがたいと思いました。
それに、普段は、「鈴木の本は反日的だ」「左翼だ」「堕落した」と批判されることが多いのに、今回の『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)は、右翼・民族派の人々に好評でした。「初めていい本を出した」「これだけはいい」と。後半に右翼の先生方の思想と行動を書いたからでしょう。では、この「一水会フォーラム」の報告からしましょう。
今回は「一水会フォーラム100回記念」なのです。だから一水会創設者に喋らせてやろうという温情なのでしょう。でも、「一水会フォーラム」の前にも講座はやってました。「一水会勉強会」とか、「一水会現代講座」という名前で。それに第1回の勉強会は1972年(昭和47年)5月です。それから38年目です。毎月やってます。月に2回やった時もあります。だから、単純に計算して、37×12ヶ月ですと、何と542回です。じゃ、「一水会フォーラム550回記念」にしたらいいんじゃないの。と言ったんですよ。
そしたら、木村三浩一水会代表が緻密に計算してくれました。正式には476回だといいます。少ないね。じゃ、「500回記念にしよう」とアバウトな私は言ったのですが、正確を旨とする木村代表は、「一水会フォーラム100回記念」でやりましょう。「通算」何回になるかは、もっとじっくり計算してみますという。
皆さん、ご存知のように、一水会は1970年(昭和45年)の三島・森田事件の後に生まれた。この直後、昔の民族派学生運動仲間が再結集し、運動を始めた。そして2年後の1972年に一水会を作り、同年、「三島・森田両烈士慰霊祭」を行った。翌年から、「野分祭」となり、人も集まり、活発な運動が始まった。
時代もまだ激動的だった。1972年は連合赤軍事件があった。1974年は東アジア反日武装戦線〈狼〉による連続企業爆破事件があった。この年、5月に私は産経新聞をクビになり、運動に専念する。この〈狼〉グループのことを書いた私の『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)が発売され、大騒ぎになった。そして、「新右翼」と呼ばれるようになる。
今までの右翼とは全く違った、新しい地点から運動を始めたのだ。そう言われた。私たちも、そう言われたことに「乗った」のだ。でも「全く新しい運動」をやったわけではない。運動を始めた人間だって、本当は、以前、右翼・民族派学生運動をしていた人々だ。そのOBが集まってやったのだ。「新しい人」ではない。その辺のことを見抜いている人もいた。たとえば堀幸雄さんだ。堀さんは『最新 右翼辞典』で、一水会について、かなり長く解説をしているが、こういう部分がある。
〈ヤルタ・ポツダム体制の打破を目指し、自主憲法制定、日米安保条約破棄を掲げている。一方、「三島精神の継承」を主張し、天皇への傾斜は著しい。鈴木をはじめ中心メンバーに生長の家の出身者が多く、この点では新右翼というより旧右翼の精神的系譜を引くが、生長の家が復古的・体制的であるのに対し、企業爆破事件を起こした新左翼東アジア反日武装戦線「狼」(74年〜75年)に共感を示したように柔軟性をもち、幅広い共闘を行っており既成右翼と違う新しい運動のスタイルをとる反体制右翼である〉
なかなか的を射ている。「生長の家の出身者が多く」とも言ってる。確かに、犬塚哲爾氏、四宮正貴氏、田原康邦氏、田村司氏、伊藤邦典氏…と、「生長の家」の人間が多い。又、犬塚氏は中村武彦先生の門下生だし、(元楯の会の)阿部勉氏は(5.15事件に参加した)橘孝三郎先生に私淑していた。まさに「旧右翼」的である。しかし、〈狼〉を評価して、「やり方」が新しかったと堀さんは言う。でも、〈狼〉を評価したのは私だけだ。他の人たちは、「鈴木さんも困ったもんだ」とハラハラとして見ていた。実際、「こんな人には付いて行けない」といって一水会を辞めた人もいた。
一水会を作った時、規約はなかったが、「入るのも、辞めるのも自由」という大きな「約束事」だけは作った。それは、私がかつて右翼学生運動で「除名」になってるからだし、他にも、日学同などを除名になったり、辞めたりした人が多かった。「辞めていくのは自由だ。しかし、運動をやりたいという人間を、除名することはやめよう」と全員一致で決めた。だから、どんなに考えが違っても、それで「除名」したことはない。入る人も、辞めた人もいた。しかし、除名された人はいない。これは一水会の歴史の中で、誇りだ。
一水会創設のメンバーは、どちらかというと「旧い右翼」の人の影響を受け、(いい意味で)旧い体質を持った人ばかりだった。「生長の家」の谷口雅春先生、中村武彦先生、白井為雄先生、影山正治先生、毛呂清輝先生、橘孝三郎先生…と。だから、今回のちくま新書では、思い切って、そうした先生方のことを書いてみた。今までは、遠慮があった。又、広く世に出る新書に、右翼の先生のことを書いても、皆、知らないだろうし…という思いもあった。「いや、ぜひ書いて下さい。鈴木さんは生き証人ですから」とちくま新書の編集者は言う。それで書いた。
そうだ。今、思いついた。堀幸雄さんは「一水会は“生長の家”出身者が多い」と書いたことだ。もしかしたら、同じ「右翼もの」を書いてる評論家として、猪野健治さんに対するライバル意識があるのかもしれない。いや、「別な角度から見てみよう」という姿勢だ。というのは、「新右翼」という言葉を作ったのは猪野さんだ。今までの右翼とは全く違う人たちが現れた。〈狼〉を評価し、〈敵〉とも共感するんだから、もう古い右翼とは違う。「新右翼」と名付けよう。そう思って猪野さんが付けたのだ。その猪野さんが編集人になり纏めたのが『右翼民族派・総覧』(平成3年=1991年版)だ。二十一世紀書院から出ている。
右翼の辞典としては一番詳しい。それに対抗するものとして堀さんの『右翼辞典』がある。だから、「新右翼」や「一水会」の記述も多い。2人とも独自な視点を入れているのだ。
念のために、『右翼民族派・総覧』で「一水会」を見てみた。かなり詳しい。一水会の【目的】として、こう書かれている。
〈戦後の右翼運動を乗り越えた新しい民族運動を目指す。日本の政治的・精神的自主独立のための理論を構築、広く大衆を啓発する。三島・森田精神を継承し、真姿日本の回復に努める〉
「新右翼」命名者・猪野さんだけあって、「新しさ」を強調している。【現況】のところでは、こんな記述もある。
〈鈴木会長をはじめとして講演会、討論会を各地で開催、精力的に活動している。毎年11月24日、三島・森田両烈士を偲ぶ「野分祭」を行い、三島・森田精神の継承を訴えている。一方、行動組織として統一戦線義勇軍を有し、過激派としての一面も持ち、新左翼からの転向者も多く入ってきている。反共のみの右翼から脱皮した新感覚の民族運動は一般大衆に多くの共鳴者を持ちつつある〉
1991年だから、まだ私が会長だった。それにしても、「過激派としての一面も持ち」「新左翼からの転向者も多く」なんて凄い。これ以上、「新しい」ことはない。やはり、「新右翼だ」と思ってしまう。
私の書いた本、『新右翼』(彩流社)も、この「猪野史観」に基づいた本だ。1970年の三島・森田事件以降、学生運動OBが集まり、全く新しい運動をやってきた。そして新左翼とも接近し…と。勿論、それは正しいし、間違っていない。一水会、新右翼の〈正史〉だ。ただ、あまり触れてこなかったこともある。旧い右翼人との接触だ。そこまで書くと、話が複雑になるし、分かり難い。そんなこともあって、あまり書かなかった。又、「新右翼」史観を強調したかった、という焦りもあったのだろう。
一水会を作って37年。そろそろ、そうした〈裏面〉〈内面〉についても詳しく書いてもいいだろうと思った。それが、『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)だ。後半は、多くの右翼の先生方について書いている。本も引用し、その思想と行動を紹介している。又、その先生方のどこに共感し、影響を受けたのか。又、どこに反撥したのか、なども赤裸々に書いている。これは、じっくり読んでほしいと思う。
12月14日(月)の一水会フォーラムでは、この本と、もう1冊、『日本の品格』(柏艪舎)をテキストにして話しをした。
さて、もう1つだ。12月13日(日)の「南京映画シンポジウム」だ。これは緊張した。今日で私の命もオワリかと思って、覚悟を決めて出かけた。だって、「南京」の映画は1本だって、右翼が抗議に押しかける。スクリーンを切られたこともあった。それなのに、この日、世田谷区民会館大ホールでやられたのは、「南京映画」を4本一挙に上映する。そして、その間に、シンポジウムをやる。いろんな人に声をかけられたが皆、断ってきたという。そりゃ当然だ。私だって断りたい。でも、普段、「全ては言論で」と言ってる立場上、逃げるわけにはいかない。だから、覚悟を決めて行きましたよ。「南京・史実を守る映画祭」だ。南京虐殺を扱った4作品が、朝から上映される。「南京」「チルドレン・オブ・ファンシー遙かなる希望の道」「アイリス・チャン」「南京・引き裂かれた記憶」の4本だ。私も事前に見た。
シンポジウムは3時から1時間。「引き裂かれた記憶」の監督・武田倫和さん、実行委員会の荒川美智子さん、熊谷伸一郎さん、そして私だ。会場の外には警察の車が何台か停まっている。街宣車も何台か抗議に来たという。しかし、会場に入って騒ぐ人はいないようだ。シンポジウムに乱入されたらどうするか、など、警備の対策も検討されている。若いボランティアが40人もいるし、弁護士が10人以上もいる。何か騒ぎがあって、外に出てもらう時も、弁護士がいれば問題はない。用意万端だ。
さらに壇上に座って驚いたが、前の3列は、関係者席になっていて、すぐに、上がってこれないようになっている。おかげで安心してトークに集中できた。観衆の人も、皆、「覚悟して来ました」という人ばかりだ。主催者も、よくやったもんだと思う。それらの人々の覚悟が実ったのだろう。実にいい集会になったと思う。
翌日、何気なく、パソコンを見てたら、「シネマトゥデイ映画ニュース」のトップにこの日のことが出ていた。中山治美さんが書いてくれていた。とてもいいレポートだった。ぜひ、皆様も見て下さい。ありがたいです。私の発言も随分と多く紹介されている。私は映画を見ていて、苦しかった。キツかった。それに、複雑な思いがあった。たとえば、
〈鈴木氏は、「(武田監督の)映画を観て思ったのは(元日本軍兵士の)証言者が加害者ではなく、自分も被害者であると思っているんですね。自分たちはあの戦争で兵にとられ、悪魔的な時代の中で命令されてやったのだ、と。被害者として安心してしゃべっているから見ていてちょっとムカツいた。息子に母親を強姦させたり、銃弾がもったいないからと一つの建物に人を集めて蒸し焼きにしたとかひどすぎる。さらには、若い兵隊が集まっているんだから(強姦は)当然だろうみたいなことも言っている。それは今の保守派の人たちの理論と同じですね。その一方で左翼の人たちが、犠牲者は30万〜40万人以上いたと一般の人の理解を得るために話を誇大にしますよね。僕はそんなに多くはないと思うけど、例え1万人でも虐殺は虐殺です。右派も左派もこうしてもって本音で話し合うべきなんです」と訴えた〉
歴史なんて、古い時代は教えなくていい。テレビの歴史ドラマで見たらいい。学校では近現代史だけを教えたらいい。そして、二度とこんな戦争を起こさないようにすることを考えたらいい。歴史の時間はそれだけでいい。と、そんな話もした。
それにしても、主催者や監督・観客の皆さんは偉い。と感謝したい。主催者はもの凄い苦労をしたと思う。そのおかげで、無事に終わった。感動した。だって、今日のノウハウはこれから、多くの人に教えてやったらいい。ともかく、自由に上映する。その上で、冷静に討論する。見ない前から抗議し、潰すのではダメだ。今回の成功を基に、どしどし、こんな企画をやってほしい。
「もし何かあったら僕を呼んでいただき、盾にして下さい。そして、もっともっと健全で自由な議論ができる。自由な日本にしていきたいと思います」と言いました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。
①「一水会フォーラム100回記念」で講演しました。12月14日(月)、サンルートホテル高田馬場です。私の『右翼は言論の敵か』と『日本の品格』をテキストにして、一水会38年の歴史について語りました。又、今まで触れてこなかったことですが、私がお世話になり、影響を受けてきた先生方の思想について語りました。
③一水会を立ち上げ頃の仲間である犬塚哲爾氏が、私の話をフォローしてくれました。ありがとうございました。犬塚氏は長崎大学で自治会活動をし、全共闘と闘っておりました。その後、上京し、一水会を一緒に立ち上げました。
④講演の後、堀辺正史先生を囲んで。(左から)田村司氏、木村三浩氏、堀辺先生、私、犬塚哲爾氏、四宮正貴氏。田村、犬塚、四宮氏は一水会創設時からの同志です。
【なお、①〜④の写真はカメラマンの平早勉さんが撮ってくれました。ありがとうございました】
⑩このパーティのあと、とうじ魔とうじさんのイベントに駆け付けました。いろんなものを楽器にする特殊音楽家です。昔、この人のイベントに通っていた人形作家がいました。二次会で私と知り合い、さらに見沢、塩見、木村氏らと知り合い、右翼になり、その後、作家になりました。雨宮処凛さんです。だから、とうじ魔とうじさんが育ての親です。
⑬『アエラ』(12月21日号)です。猪瀬直樹の『ジミーの誕生日』(文藝春秋)の書評をしました。とてもいい本です。高級な推理小説を読むような興奮を覚えました。でも、全て事実です。よく取材しています。考えさせられました。
⑮「シネマトゥデイ映画ニュース」に出てました