変なんだ。明らかにおかしい。異常に興奮している。やけにテンションが高い。1月14日(木)、一水会フォーラムに出た時だ。司会の様子がおかしい。この日の講師は、ワールドメイトリーダーの深見東州先生だ。司会は、「深見先生の経歴は…」と2、3分で紹介し、「では先生、お願いします」と言えばいい。それで司会の出番が終わる。ところが、声が上ずっている。目がうつろだ。「深見先生の紹介をしようと思えば、2時間あっても足りません。それだけ凄い先生です」と言う。
たしかに各方面にわたり、又、国際的な活動をされてる先生だ。ベストセラーを何冊も出し、いろいろな国際会議に参加し、自らオペラに出演し、歌もうたっている。「宗教家」というよりは、〈芸術家〉だ。そしてこの日は、日本主義と日本精神について話す。演題は、「中村武彦とワールドメイト。そして人生の本義」だ。
中村武彦先生は民族派運動の重鎮だった。「右翼の良心」と呼ばれ、全右翼に尊敬されていた。私らも大学生の頃からお世話になっていた。1972年に一水会を創る前から、教えを受けていた。阿部勉、犬塚哲爾、四宮正貴、田原康邦、田村司…と、一水会創設メンバーは皆、中村先生の教えを受けた人間だ。中村先生の教えがあって一水会が出来たともいえる。
実は、深見東州先生も、25才の時、中村先生に会い、それ以来、ずっと教えを受けていたという。「だから同じ、中村先生の門下生です」と深見先生は言う。これは嬉しかった。感動した。
この日は、中村先生の話に始まり、(深見先生が以前いた)大本教の話などをする。又、大本教から分かれた「生長の家」や他の宗教、そして、民族派運動について詳しく話す。初めて聞く話が多く、私らは感動した。
「よくこんな大物の先生を講師に呼べたな」と木村三浩一水会代表は他の人たちに言われたようだ。先生とは何かの国際会議で会い、親しくさせてもらったという。
この日のフォーラムの司会だって、そういった経過を淡々と話したらいい。ところが、異常に興奮している。そして、「これは大変なことです」「この日を境に、一水会は革命的に変わるでしょう」「もはや、今までの一水会ではありません」…と大声で言う。何か、ワールドメイトに深い思い入れがあるようだ。「長くなるので紹介はできない」と言いながら、5分経ち、10分経っても終わらない。20分経っても、まだ「演説」をしている。「おい、大丈夫か!」と、よほど出ていこうかと思った。「どうしたんだ」…と、会場もザワザワした。それでハッと気付いたのか、「アッ、オレは司会だった」と目覚めたのか、「講師紹介」は終わった。
そこで司会が言う。「深見先生が、国歌・君が代の独唱をします」。皆は歌わないで、静かに聞いていて下さい、ということらしい。
深見先生の「君が代」独唱を聴いて驚いた。素晴らしい。今まで聞いたどの「君が代」よりも素晴らしい。「君が代」って、こういう歌だったのか、と初めて知った。
何せ、深見先生はオペラに出ている。又、そのために音楽学校に通ったという。だからプロだ。でも、サッカーの世界大会や格闘技の世界大会で「君が代」を歌う人がいる。プロの歌手がいる。でも、余りうまくない。心がこもってない。その点、深見先生の「君が代」は全く違う。言葉の一つ一つが魂に響く。伝わる。感動した。
それから講演が始まる。講演の内容は「レコンキスタ」(一水会機関紙)の2月号に載ると思うので、それを見てほしい。私ごときが、とても、紹介しきれない。2時間書いても書ききれない。正確に伝えられない。あっ、いけない。司会と同じになってしまった。でも、あの司会の興奮、テンションの高さは何なんだろう。不思議だ。謎だ。
大本教については、高橋和巳が『邪宗門』で書いている。私は、その位しか知らない。又、「生長の家」の谷口雅春先生は大本教にいたことがある。そんなこと位しか知らない。本格的に勉強しなくては、と思っている。この日は、その点についても深見先生が詳しく話してくれた。又、頭山満、内田良平ら右翼の大御所たちが大本教と協力し、世の「立て直し」をやろうとした。又、合気道の祖・植芝盛平は、かつて大本教にいた。そんなことを断片的に知ってるだけだ。その点についても、詳しく話してくれた。
さらに、今の日本の現状、それをどうやって打ち破るか。についても話してくれた。そして最後に、我々「中村門下生」に、「これは是非、読んで下さい」と、1冊の本を配る。ワールドメイトの月刊誌で、中村先生が連載し、それを纏めたものだという。全員にもらった。
中村武彦『古事記夜話』(たちばな出版)だった。手にとって、アレッと思った。だって、6年前、私は『ヤマトタケル』(現代書館)を出したが、その中で一番、参考にしたのがこの本だったからだ。あの時は、『古事記』『日本書紀』を初め、何十冊と本を読み(100冊以上だったかもしれない)、勉強して書いた。中村先生の本を読んで、教えられ、一番多く、引用したと思う。それが、ワールドメイトの「たちばな出版」だったんだ。
さらに、『古事記夜話』の帯には深見先生の推薦の言葉が書かれていた。あっ、そうだったんだ、と思い出した。こんな言葉だ。
〈この本には眠れる魂を覚醒させる力が漲っている!
胸躍る戦いの行方、涙する恋の結末…。
名文をたどるうちに、いつの間にか体中に力が漲ってくる。私が若い頃に最初に影響を受けた文体が、中村武彦先生の文体だったのです。文体とはその人の魂の響きそのものであります。
深見東州〉
そうか、と「謎」が解けた。深見先生は25才の時、中村先生に出会い、それ以来ずっと教えを受けてきた。特に、「文章の書き方」を習ったといっていた。この帯にも書いているが、中村先生の「文体」だ。それを自分のものにした。だから、今、ベストセラーを何十冊も出せるのだ。又、「君が代」を独唱しても、その言葉の一つ一つが魂に響くのだ。
私の『ヤマトタケル』は2004年8月2日に出した。この時、いろんな人のヤマトタケル論を読んだ。その中で、中村先生の本が、一番、教えられた。ハッと思った。ヤマトタケルは、結構、複雑な人だ。凛々しく闘うが、時には、嘆き悲しむこともある。又、女装してクマソタケルを討ったかと思うと、イズモタケルを騙し討ちしたりする。この辺が私としては理解できなかった。いくら神話の英雄でも、これは、汚いだろう。だって、イズモタケルと仲良くなって、刀を交換する。でも、自分があげたものは木刀だ。そして、一緒に水浴びして、上がった時に、いきなり斬りつける。イズモタケルも刀を抜こうとするが抜けない。木刀だもん。そして、討ち取ったヤマトタケルは、勝ちどきの歌をうたう。うーん、分からん。これが天皇の御子のやることか。どう読んだらいいのだろう。いろんな人の本を読んだが分からん。ただ、中村先生は、こう書いていた。
〈(この歌は)、どうも敗れた者に対する単なるあざけりや、哀れみだけとは思えない〉
〈一菊(ひとぎく)の涙がただよい、討ちつ討たれつしなければならぬ運命の哀感がただよい、おのれ自身に対する自戒の思いを聴きとれる〉
その「自戒の思い」とは何か。こう言う。
〈威風堂々、天下の豪傑と見えた出雲建は、その美しく飾った刀が中身のないにせ物とすり替えられて、いざというとき、哀れ呆気なく私の手で討ちとられてしまった。欺いてごめんよ。しかしお前に似合わぬ油断だったなあ。いや他人事ではない。私も用心しないと『さ身無しにあはれ』と言われて不覚をとるぞ〉というふうに解してはどうだろう。武人には、智勇兼備とともに、不断の緊張と充実が要求されるのである〉
なるほど。そうなのか、と思った。「欺いてごめんよ」がいい。昔々の話だ。あるいは、こういう大らかな闘いだったのかもしれない。他にも、これはどう読んだらいいのか、どう理解したらいいのか、分からない所があって、そのたびに、『古事記夜話』を読んで、中村先生に聞いた。それは、是非、皆様も読んでみたらいい。又、私の『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)の中でも、中村先生については詳しく書いている。
深見先生の講演が終わって、二次会へ。居酒屋「えこ贔屓」だ。深見先生も気軽に参加して、一緒にお酒を飲む。一般的に言ったら、「教祖さま」だ。そんな偉い方を、こんな居酒屋にお連れしては…と恐縮したが、先生は全く気にしない。それに向かいに座った人に、「一水会の人?」と気軽に聞く。「いえ、元ブントで暴れてました」。隣の人は、「昔、ピース缶爆弾をつくってました。それを赤軍派に大量に渡しました」。ゲッ!凄い人たちだ。よく見たら、「爆弾魔」の牧田吉明さんじゃないか。この人も大本教に詳しい。それで、深見先生の話を聞きに来たという。
そこで、司会者が挨拶する。知らなかったが、この司会者は、20年前から、ワールドメイトの会員だったそうな。それで、異常に興奮してたのだ。でも、そんなことは誰も知らない。「私も初めて知りました」と深見先生。木村三浩氏との縁で、その尊敬し、神とも仰ぐ深見先生が一水会で講演する。司会者も、それを聞いてビックリしてしまった。それで興奮し、テンションの高い司会になってしまった。そういう訳だった。「皆さんも今日を境に大きく変わります。大きな光を見たのですから」と司会は言う。
二次会が終わって、私は家に帰った。明日はゴミの日だ。と、部屋を少し整理し、出すゴミをゴミ袋に入れた。先々週紹介した「早大卒業アルバム」がある。その下に、封筒がある。あれっ、何だ、これは。と開けてびっくり。まさに、光が差した。
何と、早大生の時の「学生証」が出てきた。アルバムと一緒に、実家で大切に保存しておいてくれたようだ。それが、今、見つかった。これも「奇蹟」だ。「昭和44年4月1日」になっている。三島事件の1年前だ。じゃ、全国学協の委員長をクビになって、失意のどん底にある時じゃないか。それにしては、顔付きが凛々しい。スッキリしている。何なんだこれは。それで、『新右翼』(彩流社)の〈年表〉を見てみた。自分のことなのに、よく知らない。
そうしたら、こう出ていた。
〈昭和44年(1969)5月 全国学協結成大会。委員長に鈴木邦男
6月 全国学協内紛で鈴木邦男解任。吉田良二に交代〉
あっ、全国学協結成の前だ。それに、私の「委員長」は1ヶ月も持たなかったんだ。無能な為にクビだ。これで、「民族派運動家・鈴木邦男」は死んだ。しかし、何とか「失地回復」しようと、44年中は、東京にいた。いや、仙台の実家に連れ戻された。それは何ヶ月か分からんが、仙台には何十年もいたような気がする。本屋のバイトをしたり、車の免許を取ったりしていた。でも、昭和45年の5月には産経新聞に入社した。そうすると、仙台にいたのは半年位なのか。うーん、思い出せん。
それと、学生証をもう一度、見た。「教育学部4年」になっている。あっ、そうか。早大政経を出て、大学院に行き、そこから教育学部に移ったんだ。あのまま、大学院にずっといたら、今頃は、どっかの大学教授になれたかもしれない。何と、もったいないことをしたもんだ。
それもこれも、森田必勝氏のせいだよ。と、思い出した。
早大大学院で勉強してた時、森田氏に言われたんだ。教育学部には自治会が2つある。革マル系と民青系だ。革マル系は弱体だ。だから、ここを乗っ取りましょうよ、と言う。教育学部には森田必勝氏の他、斎藤英俊氏など多くの右翼学生がいる。他の学部の人も、教育学部に移ってもらう。そして、クラス委員に立候補し、自治会選挙に出る。そうしたら、「早大教育学部自治会を民族派が取った!」と大々的に言える。森田氏はそう言う。
「だから鈴木さんも大学院なんて辞めて、教育学部に移って下さいよ」
今から考えると、とんでもない話だ。でも、「おっ、いいよ」と引き受けて、教育学部に移った。大学院を辞め、教育学部に移る時、先生に反対された。「何を考えてるんだ鈴木君。このまま大学院に残り、教授の道を進むんじゃないのか! もったいない!」と。
今から考えるとその通りだ。でも、あの時は、森田必勝氏らと一緒に、自治会を取るんだと思って、他が見えなかった。興奮していた。テンションが高かったんだ。それで、教育学部の「学生証」を持っていたんだ。でも、44年の4月に入学し、次の月が全国学協の結成大会だ。だから、この時は夢にあふれていた。凛々しい顔をしているわけだ。 だが、2ヶ月後、全国学協の委員長をクビになり、大学にも行かず、授業料も納めなかった。そしたら仙台の実家に督促状が行った。親はあわてた。「たしか大学院のはずなのに。なんで教育学部から、督促状が来るんだ?」と。
まあ、いろんなことがあったな。その頃のことは、又、ゆっくり調べて書いてみよう。
もう一度、学生証を見たら、「生年月日」が「昭和21年8月2日生」「22才」になっている。ゲッ、3才もサバよんでるよ。いいのかな。でも、いいんだ。ニセ学生証じゃない。大学側は写真と確認してハンコを押し、学生証を渡す。住所や生年月日は本人が書くようになっている。だから、私は「活動家」として少しでも若く見せようと、生年月日を誤魔化していたんだ。活動家としての「痛々しい努力」といえるかもしれない。
「欺いてごめんよ」と、ヤマトタケルのように言ったのかもしれない。
④「えこ贔屓」の壁には、いろんなポスターや「言葉」が、貼ってあった。左上は、「赤玉ポートワイン」、右は、「ありがとうは『有り難し』。めったになくて珍しいことだから、心を込めてありがとう」。
左下は、「背中の重みは大きな翼」。ウッ、何だこりゃ。我々の来るのを予言している。右の翼を持った人や左の翼を持った人(牧田吉明さんら)が大勢来てましたし。
⑦鈴木邦男著『ヤマトタケル』(現代書館)。この本を書くために、多くの「ヤマトタケル論」を読みました。そして感じたことです。ヤマトタケルを語ることは〈自分〉を語ることです。この本はイラストが沢山あって楽しいです。