「芸域を拡げましたね」と新聞記者に言われた。「アーティストとして、森村泰昌さんと『美術手帖』で話し合ってるし。『もう、ごめん!石原コンクリート都政』では、前国立市長の上原公子さんと司会をしているし」…と言う。「鈴木さんは『右翼・左翼は超えた』と、佐高さんの本で言ってますが、そうした〈政治的対立〉の世界も超えてますよ」と言う。
そうかなー。たまたま、面白い企画があって、乗っただけだ。確かに『美術手帖』の対談は楽しかった。大阪まで行って対談した甲斐があった。森村泰昌さんとは、実に多くの話をした。山口二矢、三島由紀夫、天皇制。そして芸術と政治。…などについて熱く語り合った。
大阪・鶴橋の軍人墓地で話し合い、又、森村さんの事務所で話し、実家で話し合った。ここはお茶屋さんだ。「宇治茶」とか「静岡茶」とか、いろんなお茶を売っていた。子供の時は、そういう雰囲気が嫌だったという。親から独立し、東京に出たいと思っていた。まぁ、子供なら皆、そう思うだろう。〈自由〉を求めて独立したいと思うわさ。
お父さんが亡くなってお茶屋の商売はやめた。しかし、店はそのまま保存している。茶箱もあるし、お茶屋そのままの様子が残っている。あっ、ここがあの大舞台になったのかと思った。それは『美術手帖』を見ると分かる。その由緒あるお店で対談した。
お茶の話を聞いて驚いた。「静岡茶」とか「宇治茶」とか、いろんな地方のお茶が送られてきて、そこで小売りするだけだと思っていた。ところが違う。「ブレンド」して売るという。ここの茶は味はいいが、風味が今ひとつだから、こっちの茶を少し入れよう。…といった感じだ。そのために茶の匂いを嗅ぎ茶を囓る。食べる。これには驚いた。「それが森村芸術の基盤ですよ」と言った。「全ての原点はお茶ですよ。それがなければ今の森村さんはなかったですね」と私は言った。
「えっ、そうですかね」と言いながら、「そういえば、芸術はブレンドですからね。ウーン」と考え込んでいた。芸術の場合、全くのオリジナルというのはない。何かにヒントを得て、自分の独創的なものを作る。自分の視点、自分の味を加えるのだ。「現代アート」と呼ばれている世界は特にそうだ。
森村さんはかつて、「女優シリーズ」をやっていた。世界中の有名な女優になり切って、写真を撮っていた。又、さらに、〈20世紀〉を考えるシリーズとして、その時代を生きた人々を演っている。レーニン、毛沢東、ゲバラ、ヒトラーになり切る。日本では、浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢だ。この場合、浅沼と山口の両方を演じて、一つの作品にしている。そのことによって2人を「追体験」する。又、三島事件を再現し、追体験する。この二つの作品は、紹介しておこう。
1960年の山口二矢。1970年の三島事件。この2つが大きい。森村さんにとっても、私にとっても。その辺の話しを、じっくりとした。私は何度も書いているように山口二矢と同じ年(当時17才)だし、あの事件で、「右翼」に目覚めた。そして、後に右翼の世界に入る契機となった。さらに、一度は運動をやめたのに、70年の三島事件で運動に引き戻された。つまり、山口と三島「2つの事件」によって、今の私は出来た。2つのお茶を飲むことによって、私が出来た。
でも、森村さんの体験というか、芸術家としての人生も、この2つの事件によってスタートを切った。それは子供時代に、嫌だなと思いながら見ていた、お茶屋の体験が原点にあったからだ。是非、本を書いたらいい。タイトルは『茶の本』だ。岡倉天心にならって、まず英文で書いたらいい。それと、森村家の歴史も聞いた。お父さん、おじいさん、おばあさん、母方のおじいさん、おばあさん…と。実にドラマチックだ。これも小説になる。『人生劇場』か『青春の門』になるよ。是非、書いたらいい。一緒に行った『美術手帖』の記者に向かって、「あなたが話を聞いて、まとめたらいい」と言いました。
森村さんとの対談では山口二矢、三島由紀夫の話しが中心だった。政治運動家と話すのと違って、芸術家と話すのは又、違うなと思った。森村さんは、大阪のある建物を借りて、「三島の演説」を再現している。三島と同じ位、時間をかけて演説している。三島と同じ軍服を作り、建物に檄を掲げ、「日本はこれでいいのか!」と絶叫する。凄い。途中から、「現代の芸術はこれでいいのか!」「芸術家は目覚めろ!」という話になる。三島をやりながら、「自分の演説」になる。これは凄い。実演でも見たし、DVDでも見た。何度見ても衝撃的だ。
三島を演じることで大きく変わったものもある。多分、本当に三島になったのかもしれない。その辺のことも聞いた。
真剣勝負の対談だった。だから私もつい言ってしまった。「三島にも山口にも、まだまだ惹かれるから、いつ引きずり込まれるか分からない怖さがあります。緊張感があります」と。「こんなことを言っちゃいかんな」と思ったが、つい言ってしまった。対談の前に、森村さんが陸軍墓地を案内してくれた。そこで不思議な霊の力を得たのかもしれない。呪縛されたのかもしれない。
森村さんは、いろんなものに手を触れ、演じ、その人物になり切りながら、でも、引きずり込まれないで自己を保ってきた。芸術にすることで、政治には巻き込まれなかったのか。その辺の危険性と勇気についても聞いてみた。
私は、「実は、小学校3年の時に、三島由紀夫に出会っているんですよ」という話もした。三島の名前も知らないのに、姉に連れられて、三島原作の映画「夏子の冒険」を見ている。それを絵日記に描いている。「今度、お見せします」と言った。「それも不思議な縁ですね」と森村さん。私も絵は好きだったし、もしかしたら、そっちの道があったかもしれない。そんな話をしたら、森村さんがビックリすることを言った。
「僕はむしろ鈴木さんを芸術に引き込みたい。ものの見方が普通の人と全然違うんですよ。もし僕がどこかの美術館の学芸員だったら、ゲスト・キュレーターとして鈴木さんに展覧会を企画してもらいますね。右翼だから戦争画になると思ったら大間違いで、なにかとんでもない展覧会になりそうです」
私なんて、とてもとても。と思いますが、でも、嬉しいですね。案外、実現したりして。2人の対談が載ってる『美術手帖』(3月号)は「森村泰昌特集号」です。1600円と、ちょっと高い本ですが、カラーページが多いし、森村作品の全てが分かります。これは永久保存版です。その記念すべき号で、対談させてもらい本当に光栄です。家宝です。子供や孫にも大事に伝えます。
では、もう一つ。「もう、ごめん!石原コンクリート都政」集会だ。上原公子さん(前国立市長)と2人で司会をした。司会をしたなんて、生まれて初めてだ。いや、違うな。小さな集会ではあるが、こんな大会場での司会は初めてだ。それに、平和と民主主義を守る人達が多い。革新的な人が多い。雑誌でいえば『世界』や『週刊金曜日』を読んでいる人ばっかりだ。そんな民主的・革新的な集会に、「なんで鈴木がいるんだ!」「なんで司会をするんだ」と思った人も多かっただろう。
一緒に司会をやった上原さんにも、「どうして鈴木さんが?」と聞かれた。知りませんよ。どうしてなんでしょうね。まぁ、成り行きでしょう。田舎のボーッとした少年が右翼になったのも、成り行きですが、今日の司会も成り行きです。
去年の夏頃かな。「ポスト石原都政」を考える集会があるから、出てみませんかと「マスコミ市民」の石塚さんに誘われた。フーン、面白そうだな、と参加した。「オリンピック誘致に失敗したら、責任を取る」と石原都知事は言っていた。失敗した時点で、「もうやめた」と投げ出すかもしれない。その時のために、ポスト石原を考えようという集まりだ。都知事選に、「この人たちが出ようとしている」「石原はこの人を後任にすえるのではないか」「私たちとしては、この人を推したい」といった話が毎回、かわされた。具体的な名前が出て、ポスト石原の状況も分かった。
石原はオリンピックがダメになっても、すぐには辞めなかった。任期一杯はやる。さて、その次だ。「この人に出てもらいたい」という話もするが、その前に、「石原都政とは何だったか」。それを考える集会をやろう、ということになった。それがトントン拍子に決まり、講師や報告者も決まった。「あとは司会だね」となり、誰かが「上原さんと鈴木さんがいいんじゃない」と言った。きっと、面白半分に言ったんだよ。そしたら、「いいね」「面白いね」「意外な組み合わせで、受けるよ」と、決まっちゃった。
私は反対しましたよ。「司会なんか出来ないよ」「アガリ症だから」…と。それに、渋谷のウィメンズプラザは大会場で、人が集まらなかったら、「右翼になんか司会させるからだ」と責められる。「責任とって切腹しろ」と言われても困る。でも、皆が賛成して、押し切られてしまった。
チラシが出来て、いろんな民主的な集会や、革新的な集まりで配った。「面白いね。じゃ行こう」という人はいない。「ゲッ!なんで鈴木が司会なんだよ」「冗談じゃねえや」と驚き、文句を言う人が多かったようだ。
私を誘った石塚さんは、「沖縄問題の集会が日比谷野音でやったんで、チラシを配ったんです。なんだ、こりゃ。鈴木が出てるよ!」と文句を言われたそうな。ほら、言わんこっちゃなかとよ。私を引っ張り込み、面白半分に司会になんかするからだ。
そして当日、2月13日(土)だ。何と、雨が降っている。雪まで降ってきた。きっと年輩の人が多いだろうから、寒いし、来ないだろうな、と思った。話をする馬場裕子さん(都議会議員)から「カゼで熱を出していけない」と連絡がある。ウワー、報告者だって来れないんだ。参加者は皆、来れないよ。と不安で一杯だった。
ところがですね。どんどん人は入る。満員だ。ヤッター。よかった。「これで私の任務は果たした!」と喜んでたら、上原さんに、「仕事はこれからですよ」と叱られた。上原さんは着物だ。「うわー、おきれいですね」と言いました。「あらっ、鈴木さんは着物じゃないの?」。着物、持ってないんです。(昔は持ってたけど)。愛国者じゃないですね。すんません。と謝った。
でも、2人が着物で司会じゃ、まるで右翼の決起集会になりますよ。と言った。でも、「夫婦(めおと)漫才」だからいいか。上原さんは元国立市長だし、こういう大舞台は慣れている。話もうまい。だから、盛況のうちに終えることが出来ました。上原さんのリードのおかげです。終わったら、上原さんファンの女性たちがワーッと集まって、「よかったわ」「2人のコンビがいいですね」「ずっとやって下さい」と言われた。「まるで“きょうだい”のようでした」とも。「兄妹ではなく、「姉弟」だという。それだけ上原さんがしっかりしていて、不甲斐ない弟を守って、フォローしてやったのだ。「私は鈴木さんよりずっと年下なのに!」と上原さんは不満そうでした。
本当をいうと、いろいろハプニングもあったけど、それもいい緊張感になって、大会の成功に繋がりました。6時半から開会で、初めに斎藤貴男さんが「記念講演」のはずだった。ところが来ない。何でも「日の丸・君が代」反対の集会で講演してるという。じゃ、私がそっちを代わってもよかったね。あとで斎藤さんに聞いたけど、「日の丸・君が代反対」ではなく、「強制反対」だという。だったら私と同意見だ。でも、「斎藤さんの代わりで来ました」と言ったら、向こうも困るだろうな。「何で鈴木なんだ!」「帰れ!反動!」と言われるかもしれない。
でも、斎藤さんはちょっと遅れただけで、集会も支障なく進みました。斎藤貴男さんは「石原都政10年の検証」という話をしました。いわば、全体のつかみです。総論です。他の8人の人は、具体的な問題について、各論です。各々の現場から石原都政を検証し、告発します。次のように。
これだけの問題を、各現場の専門家、議員、活動家の人から、聞けただけでも、勉強になりました。「福祉」問題を報告した民谷(たみや)氏は、プロフィールを見たら、「1998年。日本ジャーナリスト専門学校を卒業」と出ていた。この時は、私もジャナ専の講師をしてたよ。「知ってます。僕は亀井ゼミでした」と言っていた。嬉しいですね。それと「教育」問題のレポートをした土肥さん。2月6日(土)に「土肥先生を支援する会」に参加した。前にこのHPにも書いた。全校生に慕われていた人だ。凄い先生だ。司会も、進行も、全て、卒業生がやる。テキパキと。司会は2人の女性。卒業して2年か3年だというから、20才位だろう。若く、可愛らしい女性2人が司会をやる。ウワー、これはいいと思った。じゃ、2月13日も、この2人にやってもらったらいい。土肥先生に言ったら、本当に2人に聞いてる。「どう、やる?」。「やってみたいです」。
それで決まりそうになったけど。あっ、いけない。2月13日は古い男女が司会に決まっていたんだ。降ろしたらひがむよ。ということで、予定通り、古い2人で司会をやったのです。
全員の報告が終わり、「会場費が足りないのでカンパをお願いします」と、カンパ袋を回す。市民運動の集会では、どこでもある風景だ。ところが、会場の人が飛んで来て、「都の施設だから、カンパは出来ません。やめて下さい」。それで押し問答があったけど、カンパは中止。「お金を出した人は返しますので、帰りに受付でもらって下さい」。ここは都の施設だから厳しいのだろう。石原都政に反対したからじゃないだろうが…。
「まとめ」を司会の2人でやり、そして、「閉会の挨拶」を宇都宮健児さん(弁護士)がやる。宇都宮さんは日弁連の会長選挙を闘い、接戦で、次は決選投票だ。ぐんと会長の座が近づいた。
日弁連は変わります。相撲協会も変わります。次は東京都政を変えましょう!」と言っていた。いいですね。「そうだ、そうだ!」と皆、拍手しておりました。
そのあと、会場の近くの居酒屋に行って、打ち上げ。盛会でホッとしました。まるで紅白歌合戦を終えた司会のようでした。だから、「いいお年を」と言ってしまいました。又、吉田万三さんや宇都宮健児さんとも、いろいろと話しました。楽しかったです。オワリ。
①『美術手帖』(3月号)は森村泰昌特集号です。私も出ています。大阪に行って森村さんと対談をしてきました。「お茶と芸術」について語りました。
この写真は真田山旧陸軍墓地です。1871(明治8)年に我が国で最初に作られた陸軍の墓地です。ここから、森村さんの実家のお茶屋さんに舞台を移して、語り合いました。
④2月13日(土)、東京ウィメンズプラザで行われた集会「もう、ごめん!石原コンクリート都政」の時です。司会の上原公子さん(前国立市長)と私です。自分で写真を撮ろうと思いましたが、司会なので、スタッフの服部さんに頼みました。
そしたら、「分かりました。鈴木クニオさんの写真を鈴木クニオさんに頼んで、鈴木クニオさんを写してもらいます」と言う。訳の分からんことを言う人だ。
と思ったら、スタッフの中に、鈴木国夫さんという人がいる。この集会を企画した「東京。をプロデュースII」事務局長さんだ。④⑤⑥はその鈴木クニオさんが撮ってくれた。ありがとうございます。自分で自分に礼を言ってるようで妙な気持ちだ。いい写真をありがとうございました。
⑧2月12日(金)午後7時より、渋谷のレストラン「アン カフェ」で。「平和・公正・環境のために立ち上がろう—クミ ナイドウを囲む夕べ」。
クミ ナイドウさんは昨年11月にグリーンピース・インターナショナル事務局長になりました。南アフリカ出身で、アフリカからの事務局長は初めてです。又、長い間、人権運動をやってこられた人です。他の組織からグリーンピース・インターナショナルの事務局長になった人も初めてです。
右がクミ ナイドウさん。中央はジャーナリストの菅原秀さんです。何と東北学院榴ヶ岡高校の第6期生だといいます。驚きました。私の後輩です。「鈴木さんは学院高校の誇りです」と菅原氏。
何をおっしゃりますか。一度は退学にまでなったんです。「学院高校の恥」ですよ。漫画家や映画監督もいるじゃないか。じゃ、「東京で同窓会をやりましょうか」と菅原氏。いいね。彼は世界中を駆け回るジャーナリストだ。だから彼が通訳してくれて、ナイドウさんと環境問題や、捕鯨問題について語り合いました。
⑨グリーンピース・ジャパン事務局長の星川淳さんと。星川さんとは昔からのお友達です。「今でも、グリーンピースとシーシェパードを間違っている人がいて困る。と言ってました。
最近は、間違われることも少ないでしょうが、SS(シーシェパード)は、捕鯨船に体当たりしたり、発煙筒を投げつけたりする過激な団体です。グリーンピースは、世界的な規模で、合法的に反捕鯨、環境運動をやっております。
⑫2月14日(日)午後1時から、ネーキッドロフトで。佐川一政さんが熱く語りました。久しぶりでした。還暦を迎えたというけど、とても見えません。若いです。この日はロフトのメニューに1日限定で「焼き肉チャーハン」が出てました。何故でしょうか。
⑬2月12日(金)夜9時から10時半まで、渋谷ユーロスペースで増田俊樹監督の映画「おやすみアンモナイト」のレイトショーが行われ、そのあと、トークがありました。
(左から)増田監督、映画のモデルの「素人の乱」の松本哉さん。私。この映画の脚本を書いた昼間たかしさんです。楽しかったです。このあと、近くの居酒屋で2時まで飲みました。