2010/03/08 鈴木邦男

「死刑の基準」を考える

①ジュンク堂で、「白ヘルと黒ヘル」の話をした

中川文人氏(中央)、外山恒一氏(右)ジュンク堂新宿店のトークセッション(2/26)
中川文人氏(中央)、外山恒一氏(右)ジュンク堂新宿店のトークセッション(2/26)

そうか。「2.26事件」の日なんだ。と思った。2月26日(金)は驚きの二乗だった。午後6時半からジュンク堂新宿店で始まったトークイベントは超満員だった。その後に行った「小沢vs検察」のシンポジウムも超満員だった。まずは、ジュンク堂の報告だ。『ポスト学生運動史』(彩流社)の出版記念イベントだ。中川文人氏(語る人)、外山恒一氏(聞く人)の黄金コンビで作った衝撃的な本だ。私が司会で参加し、3人でトークセッションをやった。

この2日前の「朝日新聞」(夕刊)に、このトークのことが出た。それで40人定員の8Fカフェは申し込みが殺到し、すぐに締めきり。でも当日は、どうしても聞きたい人が来て、急遽、椅子を増やし、100人ほどを入れた。

知ってる人もいるし、初めての人もいる。「この本の表紙にでている黒ヘルは僕です」という人もいる。でも黒ヘル、覆面、それに白いコート。これじゃ、分からない。ともかく、法政大学黒ヘルの決起集会のようだった。と思ったら、戦旗派の早見慶子さんもいる。他のセクト(党派)の人もいる。又、オウム真理教(現・アレフ)の広報部長・荒木浩さんもいる。右翼っぽい人もいる。凄い人々だ。凄い集会だ。

それも、薄暗い、地下のロフトでやるのなら分かるが、明るい、ジュンク堂新宿店の8Fだ。「ロフトなら恐いが、ここなら安全だ」と思って、覗きに来た青少年もいた。その点、書店でのトークはいい。

6時に集合して、打ち合わせ。6時半スタート。8時終了。トークの合間に、参加者からの質問も受けながら進む。

控室で打ち合せの時の3人です
控室で打ち合せの時の3人です

スタンダールに『赤と黒』という小説がある。貧しくも野心家の青年が、この社会でのしあがるには、赤い服(軍人)になるか、黒い服(僧)になるかしかない。そんな青年の闘いと挫折を描いた小説だ。一方、この『ポスト学生運動史』は、いわば「白と黒」だ。過激な学生運動をやろうとした若者は、法政大学では白ヘルメット(中核派)になるか、黒ヘルメット(ノンセクト・ラジカル)になるかしかなかった。学生運動の「大手」に入って組織的に暴れるか、小さな「ノンセクト」で勝手に暴れるか。2つの選択しかなかったのだ。

「黒ヘル」というと、〈アナキスト〉のイメージがあったが、そんなことはないという。早大では「黒ヘル」というとアナキストを自称していた人が多かった。でも、法政では、中核、革マル、社青同、社学同、といった大手セクトに入らない人、入れない人のことだ、という。「まあ、諸派、雑派、というところですね」と中川氏は言う。雑派はひどいね。選挙の時も、大きな政党に入れない人は、「諸派」とか「無所属」とか言われる。あれなんだ。

中川文人氏の話も面白いが、聞き手の外山恒一氏もいい。外山氏といえば、都知事選に出て、派手な、破天荒な政見放送をやった。そのパフォーマンスが有名だが、実は、驚くほど実務能力のある人だ。『青いムーブメント』(彩流社)でそれを知った。知られざる運動史について、よくぞここまで詳しく調べ、書いたもんだと驚いた。竹中労は「革命は実務だ」と言ったが、それを思い起こさせる。その才能は、この『ポスト学生運動史』にも遺憾なく発揮されている。面白い本だ。一気に読める。それでいて、内容が濃い。深い。ウーン、いい本を読んだと感慨に浸るだろう。

②少年グループの4人連続殺人事件

外山恒一氏(左)、アレフの荒木さん(中央)
外山恒一氏(左)、アレフの荒木さん(中央)

ジュンク堂新宿店のトークは8時ちょっと過ぎるまで続き、それからサイン会。「じゃ打ち上げに」と皆は行くが、私は次の集会へ。文京区民センターへ行く。午後6時から、月刊「創」主催で、シンポジウムをやっている。急いで駆け付け、終わりの方だけ出た。「『小沢vs検察』にみる検察と報道のあり方」。三井環、鈴木宗男、上杉隆、青木理、元木昌彦、安田好弘さんが出ていた。司会は「創」の篠田編集長。会場に着いて驚いた。もの凄い人だ。あとで聞いたら450人だという。この問題への関心の高さを表している。私も、三井さんの事件について少し話した。そのあと、皆で二次会へ。

青木理さんの『絞首刑』(講談社)は考えさせられた。いい本だった。と、当の青木さんに言った。いろんな事件を取材し、死刑囚にも会う。そして「死刑」を考える。

〈「存置」か「廃止」か、ではない。
 描かれるのは、徹底的にリアルな風景だけ〉

と本の帯には書かれている。

いろんな事件が紹介されるが、何といっても、「木曽川・長良川連続リンチ殺人事件」だ。何とも凄惨な事件だ。

1994年(平成6)の9月から10月にかけて、大阪、愛知、岐阜の3府県にまたがって起きた事件だ。当時18〜19才だった3人の少年を中心とする少年・少女グループが、わずか11日間のうちに、合計4人の男性に集団リンチを加え、殺害している。知り合ったばかりのグループが、何の計画性もなく、ささいな事で喧嘩し、仲間をリンチし、殺した。又、他の都市に行って、「あいつは気にくわん」といって殴り、殺す。そして4人も殺した。シンナーを吸いながら、さらには他のメンバーに「いい格好を見せたい」ために。又、女の子もいたので、「女の前でビビっていると思われたくない」ために、率先して殴り、リンチした。何やら、「連合赤軍事件」のようでもある。でも、そんな思想性もないし、計画性もない。

『ポスト学生運動史』(彩流社)
『ポスト学生運動史』(彩流社)

「そんなことで人を殺すのか?」「それに短期間も?」と思われるかもしれない。でも、殺したのだ。当人から聞いたから本当だ。実は、この事件の主犯とされている少年(今は30過ぎだが)とは知り合いだ。もっとも、事件後知り合った。青木さんの本では仮名だが、小林正人君という。ポッチャリとした、色の白い、「マルコメ味噌」のCMに出てくるような可愛い青年だ。「野村秋介さんの本を読んでいて、運動に入りたいと思ってた」と言う。だったら、すぐに上京したらよかったんだ。グズグズしてるから、こんな事件に巻き込まれる。彼は「主犯」といわれているが、やはり、その場の〈空気〉に呑まれ、巻き込まれたのだろう。一、二審とも死刑だ。それが最高裁で覆るかどうか、極めて難しい。だから、面会しても何と言葉をかけてやればいいのか。悩む。

最近では、12月の下旬に面会した。アムネスティの人たちと一緒に行って会った。元々は、その人たちが紹介してくれたのだ。「鈴木さんに会いたがってる人がいますよ」と言われ、12月に面会した時は、この年最後ということで混んでいた。小林君は、私の『右翼は言論の敵か』を持って現れ、「とてもいい本でした。感動しました」と言っていた。彼は野村秋介さんの本も随分と読んでいる。私の本も読んでいる。「小林君も中で文章を書きなよ。見沢知廉のようになれるよ」と言った。

小林君は、30過ぎなのに、かわいらしい。あんな事件を起こしたなんて信じられない。事件については、「創」やHPにも書いた。その時、当時の新聞記事や週刊誌の記事を読んだ。あまりにも陰惨な事件だ。突発的に通行人に喧嘩を売り、拉致し、リンチし、殺す。その繰り返しだ。ヤクザや暴走族なら、上の者が止める。でも、同じ位の〈対等の〉集団だから、止める者はいない。〈強さ〉を他の仲間に誇示しようと、より凶暴になる。読んでいて、苦しかった。

集団で、短期間で4人殺した。そうだ。昔、短期間で4人殺した人がいたな、と思った。永山則夫だ。あの事件は、「連続射殺事件」と言われた。たまたま、盗みに入った米軍住宅でピストルが手に入り、それで4件の射殺事件を起こす。でも、獄中で、もの凄い勉強をし、『無知の涙』を書いた。ベストセラーになった。

小林正人君にも、「永山則夫のように勉強し、本を書け」と言おうかと思ったが、やめた。永山は、一度は無期の判決を受けたが、最終的に死刑判決を受け、執行された。小林君との間で、死刑の話はタブーだ。今、小林君は名古屋の拘置所にいる。ラジオなどは聞く時間はある。何かの話の時、「テレビは見れないの?」と聞いた。今、裁判中だから見れないという。「刑が決まったら、見れます」と言う。「刑が決まったら」というのは最高裁で死刑が確定したら、という意味だ。そうなったら、もう誰とも会えない。死の執行までまっしぐらだ。それを思って私らは、黙りこくった。

「中で文を書いたら」と言った私の言葉も残酷だったかもれしない。書くとしたら、4つの殺人事件のことしかない。申し訳ないという反省、懺悔ばかりだ。又、「何であんなことをしたのか」「もう一度、時間を戻してくれ!」という叫びになる。書くことによって、かえって自らを責め、追い込むことになるのか。考え込んでしまった。

③死刑判決に「基準」などあるのか

堀川恵子『死刑の基準』(日本評論社)
堀川恵子『死刑の基準』(日本評論社)

死刑については、いろんな本を読んでいる。森達也さんの本も読んで、考え込んだ。さらに、「アエラ」(3月8日号)に、堀川恵子『死刑の基準=「永山裁判が遺したもの」(日本評論社)の書評を書いた。

この本は衝撃的な本だった。永山事件、永山裁判について、私はかなり知ってると思ったが、実は何も知ってなかったんだと思った。堀川は永山裁判を通して、死刑を考える。そして、「死刑の基準」について考える。

本当の事をいうと、裁判官でも死刑を宣告したくないのかもしれない。しかし、「死刑」がある以上、「極刑」として宣告しなければならない。そんな場面がある。死刑がなければ、裁判官は救われるのに。ましてや、自分が死刑判決し、執行され、そのあとで「冤罪だったのでは」と悩むケースもある。最近の事件でもある。そうなると、自分も「殺人者」になってしまう。だから、裁判員制度をつくったのではないか。もうすぐ、「死刑か無期」かの判断も迫られる。それによって民間人も巻き込める。「共犯関係」に引き込める。悪意に解釈すれば、そういう意味もあるのではないか。そうも思う。裁判官は、死刑を宣告する「苦悩」を民間の裁判員にも「おすそ分け」するのだ。そのことで自らの「苦悩」を少しでも減らしたいと思っているのかもしれない。

死刑には、本当は「基準」はない。各々のケースで違う。でも、何とか「基準」を探そうとする。作ろうとする。永山裁判の最高裁で出された「9つの量刑因子」というのは、それだ。と言われている。だから、これ以降は、この「基準」に従って、あるいはこの「基準」を参考にして、「死刑か無期」かを裁判長は考えてきたのだろう。

4人を射殺した永山は、二審では無期だったが、最高裁で差し戻され、高裁で死刑が確定し、執行された。最高裁で示された9つの「量刑因子」だ。この9つに当てはまる時は死刑だ。という「基準」だ。それを示したものと言われる。こう書かれている。

「アエラ」(3/8号)より
「アエラ」(3/8号)より
〈結局、死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗生・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状など各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められた場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない〉

最高裁の裁判官も苦悩してるんだ、と思った。この前には、高裁で「無期」の判決が出た。「人を4人も殺しておいて無期か」「だったら、何の為に死刑制度があるんだ」と各方面から声が上がった。特に政府や、体制側からの声だ。それに何とか最高裁としては、キチンと見解を出す必要がある。応えなくてはならない。それに、高裁で無期にした「船田判決」に反論しなくてはならない。船田判決は今、読んでも説得力がある。それだけに、最高裁としては具体的に「9つの量刑因子がある」と示したのだろう。

順番が逆になったが、「無期」にした高裁の船田判決の要点はこうだ。

死刑は、「如何なる裁判所であっても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合」に匹敵するようなものでなくてはならない。又、死刑の宣告には裁判官一致の意見によるべきもの、と言っている。実にまっとうであり、正論だと思う。一人の命を奪うのだから、一審から全て、それも、全ての裁判官が「死刑」を宣告した、その場合だけに限定するべきだ。一審か二審か、最高裁か、とにかく、どこかで違ったり、裁判官の一人でも反対したら、「死刑」にはしない。当然の話だと思う。この正論に対し、最高裁は苦しみながらも、「9つの量刑因子」で答えたのだ。

それ以降、「9つの因子」が「死刑の基準」にされる。しかし、それ以前の船田判決の「基準」の方が実は重いと思う。だが、そうは理解されてない。

④永山の『無知の涙』の衝撃

シンポジウム「小沢vs検察」にみる検察と報道のあり方(2/26)
シンポジウム「小沢vs検察」にみる検察と報道のあり方(2/26)

ちょっと遡って、永山則夫の事件と裁判をザッと紹介してみる。

1968年10月11日に永山則夫の第1の射殺事件が起こっている。70年安保の2年前だ。そして、三島事件の2年前だ。三島は「楯の会」を作り、自衛隊クーデターを考えていた時だ。そして、この堀川の本を読んで初めて知ったが、永山裁判には三島事件が深く影を落としている。「忠臣蔵」と「四谷怪談」のように、表と裏のような関係だ。どちらが表で、どちらが裏かは、見る人の思想的位置によって変わるだろうが。

永山の第2の射殺事件は3日後の10月14日。その12日後の10月26日には第3の殺人事件。そして10日後(11月5日)は第4の事件を起こしている。2ヶ月足らずの間に、4人もの生命を奪っている。

1969年4月7日、逮捕されている。1979年7月10日、一審(東京地裁)で死刑。

しかし、逮捕されてから永山は猛烈に勉強。子供の頃から、極貧の中で、母にも捨てられ、学校にも行けなかった。もともとは頭が良かった子供だろう。そして向学心に燃えていた。事件を起こし、逃亡中も、何とか学校に行きたいと試みている。永山は東拘大(東京拘置所大学)で勉強したといっている。そして、資本主義社会が悪い。この社会が僕たちプロレタリアートをつくり、搾取していると喝破。なぜ俺のような人間(犯罪者)が出来たのか。それは貧しさによってだ、と言う。乱暴な理屈のようだが、そのことを1971年3月に『無知の涙』に書いて出版。「極貧ゆえの犯罪」ということを立証している。ちゃんと勉強すれば、こんなに出来るんじゃないか。こんな偉大な思想家を、貧しさゆえにこの社会は犯罪者として追いやったのではないか。当時、『無知の涙』を読んだ私だって、そう思った。こんな優秀な思想家を国家は殺そうとしてるのか、と憤った。

多くの人がそう思った。この本はたった2ヶ月で6万部も売れた、ベストセラーだ。そして、文化人、学者、知識人が「永山裁判支援」に動いた。今なら、あり得ない。どんなに立派な本を書いても、「でも4人も殺したんだ。死刑しかない」と。それで終わりだ。でも、当時は違った。又、支援者の女性と永山は「獄中結婚」もしている。時代的背景もあっただろう。まだまだ革新的・反体制的な風潮も強かった。堀川は書いている。

〈1970年代前半は、『朝日ジャーナル』と『無知の涙』を持ち歩くことで、「反権力」を通す格好いい生き方として若者たちにとっては、それがある種のファッションだった時もあった〉

そして、第二審だ。1981年8月21日。東京高等裁判所は何と、無期懲役を判決。「一生涯生きて償え」と言ったのだ。今だったら、絶対にあり得ないだろう。「4人も殺したんだ。死刑以外にない」で終わりだ。これは画期的だ。そして、船田三雄裁判長の「船田判決」は実に衝撃的なものだった。「死刑の基準」というならば、本当は、これこそが基準にされるべきだ。

⑤永山裁判と三島裁判の意外な関係

450人も集まり、超満員でした
450人も集まり、超満員でした

それに堀川の本を読んで驚いたが、この「船田判決」は、実は、右陪審の櫛淵理(くしふち・おさむ)裁判官が書いたものだという。堀川の本の中で、櫛淵自らが告白している。

エッ?本当かよと思った。だってこの櫛淵は1971年の「三島裁判」を裁いた裁判長だったからだ。三島事件と永山事件は表と裏だと言ったのは、そのことだ。

1970年11月25日、三島と楯の会会員4人は自衛隊に行き、自衛隊員にクーデターを訴え、その後、三島由紀夫、森田必勝は自決した。初めは5人全員で自決する予定だったが、三島は残る3人には、「生き残って裁判で『楯の会』の思想を伝えろ」と命じた。これで、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋の3人は、裁判を戦った。この「三島裁判」の裁判長が櫛淵だった。

はっきり言うが、この裁判長にいい感じは持たなかった。「楯の会」の人たちもそう思ったろう。支援した全国学協や日学同など民族派学生たちもそうだった。私も聞いていて、「いやな裁判長だな」と思った。だって、自分の陽明学の学識や武士道の蘊蓄をひけらかし、被告(「楯の会」3人)に失礼な質問を浴びせる。「今の天皇陛下の名前は。その前の天皇は、さらにその前は?」。そして、陽明学について「面接試験」をするような問い方だ。三島は刀をどう握ったかなどなども聞く。

堀川も、この櫛淵について、「かつて三島由紀夫裁判で、型破りな法廷指揮で采配をふるった裁判官だ」と書いている。

その「三島裁判」(1971)から10年後、今度は永山事件の二審で、4人を殺した永山に「無期」を判決する「船田判決文」を書いたのだ。この10年の間に何があったのか。きっと〈三島〉に関わった経験が大きかったと思う。あのパフォーマンスの反省もあったのだろう。「命」の問題も考えたのだろう。それが、永山の判決になっていると思う。

上杉隆さんと
上杉隆さんと

さて、この「無期」判決に慌てた検察は最高裁に上告した。そして、1983年7月8日に、最高裁は原判決を破棄。東京高等裁判所に差し戻した。

そして、1987年3月18日、東京高等裁判所は永山に死刑を判決。その10年後、1997年に死刑は執行された。

永山の4件の犯罪も残酷だが、この裁判も残酷だ。永山は事件後、自殺しようとしたが、果たせず捕まった。本人だって、死刑しかないと思っていた。ところが、二審(東京高裁)では、「無期」。「じゃ、出たら塾をやりたい」と出所後の希望も語る。

「いままで僕が生きてきた、学歴競争の社会とは違った意味での塾です。端的にいうと、僕の塾ではどんな点を取っても構わない。だけど一番の点を取った人に、一番ビリの人を援助させる。そういう塾を、ミミと一緒に作りたいです」

と、弁護人質問で答えている。1981年4月17日だから、「無期」の判決の4ヶ月前だ。「もしかしたら…」という希望が芽生えて、弁護士も聞いたし、永山も答えたのだろう。4ヶ月後、「無期」になった後も、この「ミミと共に塾をやりたい」と何度も何度も言っている。ミミとは、獄中結婚した奥さんだ。

(この堀川の本では、ミミさんとの出会いから、支援、愛情について実に詳しく書かれている。堀川はミミさんに会い話を聞いている。又、子供の頃、「永山を捨てた」と恨まれている母親との交流についても書いている。又、永山が700人以上に出した1万5千通以上の手紙に全て目を通したという。大変な苦労だ。堀川はよく、それだけやったものだと、ただただ驚く)

1981年高裁で「無期」。しかし、1983年、最高裁が破棄し、高裁に差し戻した。この時点で、又、死刑だと永山は悟る。つまり、たった2年間だけ、「生きる夢」を見させたのだ。残酷だ。永山は弁護士に言っている。

「生きたいと思わせておいてから、殺すのか」と。

この頃から、奥さんともうまくゆかなくなり、そして弁護士も次々と解任。私がお世話になった遠藤誠弁護士も、一時、永山の弁護士になっている。その時の話をもっともっと聞いておけばよかったと悔やまれる。三島裁判と永山裁判。そして遠藤弁護士。こんなに近く関係があったんだ。

⑥永山の「生きた言葉」を知った

青木理さんと
青木理さんと

この堀川の本は、本当に凄い本で、私の知らないことばかりだった。永山の『無知の涙』の出版事情も、こんなことがあったのかと驚いた。又、三島裁判との関係。永山と奥さん。永山と母親の関係。果たして死刑に「基準」はあるのか。などなど、考えさせられるテーマが゛、ギュッと詰まっていた。「アエラ」(3月8日号)に私が書評を書いた。タイトルは〈死刑囚・永山則夫の「生きた言葉」の記録〉になっている。余りに書くべきことが多くて、テーマを絞り切れなかった。そこで永山の〈ことば〉について書いた。でも、途中で、「死刑に基準はあるのか」だけに絞って書いた方がよかったのではと猛烈に反省した。俺は未熟だな、と思った。それで、「アエラ」に電話して、「書き直しましょうか」と言ったが、もう時間がなかった。だから今回の「アエラ」の原稿は、反省している。もっともっと書きたいことがあった。それで今回、このHPに急遽書き足しているのだ。

永山は『無知の涙』の他にもかなり本を書いている。難解だ。よくこれだけ勉強し、急成長したものだと思う。本当に塾の先生になれたらよかったのに。たとえ一生獄中に隔離していても、今ならインターネットを通じて「塾」を作るということも可能だ。そんな形に現在、ツール(道具)を使っていない。愚かだ。ネットを通じてでも、永山と会ってみたかった。話してみたかった。

青木理『絞首刑』(講談社)""
青木理『絞首刑』(講談社)

『無知の涙』は、永山の獄中のノートを基にまとめられた。しかし、反権力的なところを中心に、さらに強調して、作られたという。かなり意識して、編集して「反権力」的な本に作られたという。堀川に言われるまで全く知らなかった。永山の関係者を訪ね歩き、長屋の1万5千通の手紙に目を通した堀川だ。これは真実だろう。そして言う。

〈永山は二つの言葉を使い分けてきた。社会を糾弾するための“たたかう言葉”、そして、自分自身の本音を語る“生きた言葉”である〉

私など、永山の「たたかう言葉」しか知らなかった。だから、この「生きた言葉」には衝撃を受けた。そして、そこを中心に「アエラ」では書いたのだ。それでも書き足りなくて、こうして書いている。又、これでも足りない。是非、皆も堀川の本を読んでもらいたい。いろんことを考えさせられ、知る本だ。

【だいありー】
佐高信・鈴木邦男『左翼・右翼がわかる!』(金曜日)
佐高信・鈴木邦男『左翼・右翼がわかる!』(金曜日)
  1. 3月1日(月)午前10時、打ち合わせ。午後から河合塾コスモで自習。4時50分、阿木幸男先生の「人間関係ゼミ」に出る。「非暴力平和隊(NP。Nonviolent Peaceforce)」事務局長ティム・ウォリスさんが来て講演。地域紛争の非暴力解決を実践するために活動している国際NGOで、その活動のDVDを見て、話を聞く。紛争地に行き、「第三者の外国人がいる」ことで紛争の拡大を阻止し、和平の契機を作っている。非暴力でこれだけのことが出来、成果を上げている。知らなかったので、とても勉強になった。阿木さんが通訳してくれたが、生徒は英語で直接、質問し、ティムさんと話し合っている。凄い。
     この日、「アエラ」(3月8日号)発売。堀川恵子『死刑の基準』(日本評論社)の書評を書きました。
  2. 3月2日(火)昼、取材。夜7時、帝国ホテル。「みらいみんようプロジェクト発足式」に出る。会長は加藤紘一さん。民謡と民舞の素晴らしさをより多くの人に伝えたいという思いで、作られた。プロ民謡民舞実演家による新団体だ。デモンストレーションの生演奏もたっぷり聞き、堪能した。元防衛庁長官の中谷元さん、河村健夫さん、二木啓孝さんなどに会った。中谷さんは、前に一度お会いした。「たかじんを見てますよ」と言われた。終わって木村三浩氏たちと新宿へ行って飲んだ。
  3. 3月3日(水)仕事が遅れてるので、1日家で原稿を書いていた。
  4. 3月4日(木)11時半、サンルート。講演会の打ち合わせ。午後から河合塾コスモで勉強。6時半、高田馬場。『右翼は言論の敵か』の打ち上げ。ちくま新書の青木真次さん、ライターの山田英生さんと飲む。本当にお世話になりました。おかげでいい本が出来ました。
  5. 3月5日(金)昼、銀座。夜、徹夜で原稿を書く。
  6. 3月6日(土)午後、座談会。夜、打ち合わせ。
  7. 3月7日(日)昼、打ち合わせ。午後、図書館。
【写真説明】
中川文人氏(中央)、外山恒一氏(右)ジュンク堂新宿店のトークセッション(2/26)

①2月26日(金)6時半より、ジュンク堂新宿店8Fで。中川文人著、外山恒一(聞き手)の『ポスト学生運動史』(彩流社)の出版記念トークセッションで。40名定員なのに、100人以上が来てくれて、超満員でした。とても楽しかったです。

控室で打ち合せの時の3人です

②6時に集まって、打ち合わせをしました。打ち合わせが盛り上がったので、「マズイよ。本番に話すことがなくなっちゃうよ」と、やめました。黒ヘルの「同窓生」たちも沢山来ておられました。昔は暴れていたんでしょうな。恐かったんでしょうな。

外山恒一氏(左)、アレフの荒木さん(中央)

③オウム真理教(現・アレフ)の広報部長、荒木浩さん(中央)も来てくれました。ちゃんと本を買ってくれました。ありがとうございます。右は外山恒一さんです。

『ポスト学生運動史』(彩流社)

④是非読んで下さい。これが噂の『ポスト学生運動史』(彩流社)です。ジュンク堂「イデオロギー部門」で、ずっと売り上げ第1位だったそうです。

堀川恵子『死刑の基準』(日本評論社)

⑤これも凄い本です。考えさせられました。堀川恵子『死刑の基準=「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)です。

「アエラ」(3/8号)より

⑥この本について書きました。「アエラ」(3月8日号)です。〈死刑囚・永山則夫の「生きた言葉」の記録〉です。

シンポジウム「小沢vs検察」にみる検察と報道のあり方(2/26)

⑦月刊「創」主催のシンポジウムです。2月26日午後6時より。「小沢vs検察」に対する検察と報道のあり方。文京区民センターで。出席者は三井環、鈴木宗男、安田好弘、上杉隆、青木理、元木昌彦さん。ジュンク堂のトークが終わって、私も駆け付けました。鈴木宗男さんは途中で帰ったので、その席に私は座りました。

450人も集まり、超満員でした

⑧450人も集まり、凄い熱気でした。壇上の安田さんはパソコンで資料を見ながら話してます。上杉さんはツイッターをやってます。「ちょっと暑い」とつぶやくと、会場の人がそれを見て、冷房を入れてました。会場を管理する区長から、「9時半までに必ず終わるように」と上杉さんにメールが。動画サイトで配信されたそうで、リアルタイムで全国の人が見てるんですね。

上杉隆さんと

⑨上杉隆さん(ジャーナリスト)と。「たかじん」で一緒して以来です。「週刊朝日」で書いてる検察批判はいいですね。と話しました。他の人に聞いたのですが、あれで「週刊朝日」は売り上げが1.5倍伸びたそうです。

青木理『絞首刑』(講談社)

⑩青木理さん(ジャーナリスト)と。『絞首刑』(講談社)はよかったです。と話しました。そこに書かれている「木曽川・長良川連続リンチ殺人事件」の“主犯”とされている小林君に、青木さんは最近、面会に行った。「12月末に鈴木さんが来てくれた、と喜んでいた」と言われた。青木さんは、元・共同通信の記者。警備・公安担当となり、その体験を生かし、『日本の公安警察』(講談社現代新書)を書いた。私が『公安警察の手口』(ちくま新書)を書いた時にも、大いに参考にさせてもらった。又、「オーマイニュース」にいた時も、お世話になった。そこで、連載「愛国の座標軸」を書かせてもらった。

佐高信・鈴木邦男『左翼・右翼がわかる!』(金曜日)

⑪「週刊金曜日」(2月26日号)の裏表紙には、『左翼・右翼がわかる!』の広告が大きく載っていた。売れ行きはいいようです。もうすぐ増刷だそうです。佐高さんの力です。ありがとうございます。

【お知らせ】
  1. 3月6日(土)月刊「」(4月号)発売。私の連載では「三島と石原の別れ道」を書きました。
  2. 3月18日(木)7時、サンルートホテル高田馬場一水会フォーラム。松本健一さん(作家)が講師で、「日本のナショナリズム」(仮題)について語ってもらいます。
  3. 3月19日(金)7時、阿佐ヶ谷ロフト。佐高信さんとトークです。八重洲ブックセンター(2月9日)に続いて、『左翼・右翼がわかる!』(金曜日)の発売記念トーク・第2弾です。
     さらに、雨宮処凛さん、南丘喜八郎さん(「月刊日本」主幹)もゲストで参加してくれます。お楽しみに。
  4. 3月26日(金)、27日(土)阿佐ヶ谷ロフトで劇団再生のお芝居「演劇機関説・空の篇」があります。又、両日とも開演前にトークがあります。劇団「再生」の高木尋士さんと私で「読書の暮れ方」です。26日(金)は7時半スタート。27日(土)は6時スタートです。