「立松和平さんを偲ぶ会」が3月27日(土)、青山葬儀所で行われ、参列しました。会場に入り切れなくて、長い列が出来ていました。午後2時から始まり、北方謙三さんや黒古一夫などの弔辞が続く。鳩山由紀夫首相の弔電も披露された。3時40分から焼香。高橋公さん、麿赤児さん、三上治さんらに会った。立松さんは62才だった。「早すぎたね」「元気だったのにね」と皆、言っていた。
僕も、つい最近、会ったような気がする。出版記念会だ。去年だと思う。「いや、一昨年だよ」と言う人もいた。当日渡された『流れる水は先を争わず=立松和平追想集』の巻末には「立松和平・略年譜」が出ていた。2007年、『道元禅師』(上下)で泉鏡花賞を受賞。2008年、同じく『道元禅師』で親鸞賞を受賞する。と書かれている。この受賞記念パーティだったと思う。やはり2年前か。(あとで、ネットで調べてみたら、07年9月4日だった)。とても元気だった。「鈴木さんも小説、書きなよ」と言われた。私なんて、とてもとても。ロクに字も書けないし、パソコンばかりで漢字も忘れている。「だから僕は、全て、手書きですよ」と立松さんは言う。「そうでしょうね。道元禅師を書くのにパソコンではね」と私は言いました。
私も、お寺や神社に行くことがある。お札やおみくじを売っている、その後ろの社務所を見ると、白い着物を着た人々がお仕事をしている。
ご苦労様ですね、と思う。でも、パソコンに向かって仕事してるのだ。あれっと思った。正座して、筆で書いてるのかと思ったのに…。
その話も立松さんにした。「そうですね」と言っていた。やはり、パソコンに向かって『道元禅師』は、書けないだろう。立松さんは律儀な人だったし、気配りの人だった。一水会副会長だった阿部勉氏(「楯の会」一期生)とも親しかった。随筆集の中で、阿部氏のことも書いていた。とてもいい文章だった。そうだ。保阪正康さんも阿部勉氏のことを書いていた。と思い出した。
あんなに元気だったのに、立松和平さんは、今年の2月8日、多臓器不全で亡くなった。満62才だった。余りに若い。
生まれたのは1947年(昭和22)2月15日、栃木県宇都宮市に生まれた。満63才になる一週間前になくなったのか。本名は植松和夫。本名を、ちょっといじって「立松和平」にしている。
1966年4月、早稲田大学政経学部に入学。この時、すでに私は早稲田の、同じ政経にいた。会ったかもしれない。知らずに激突し、殴り合いをしたのかもしれない。「略年譜」(黒古一夫さん作成)には、こうある。
〈1966年4月 早稲田大学政経学部に入学。当時キャンパスは学生運動で騒然としており、機動隊に守られての受験であった。入学後、「早稲田キャンパス新聞会」に入会するが、学生間の政治的対立が新聞会にも持ち込まれ、除名される。その後、文章表現研究会に入会する〉
当時、自治会も学内サークルも、ほとんどが政治党派の影響を受けていた。政経の自治会は社青同解放派、法学部は民青、商学部と文学部は革マル派…というように。又、社会科学研究会、婦人問題研究会、東洋文明研究会…など、皆、「党派」が牛耳っていた。いわば「偽装サークル」だった。右派系のサークルもあった。日学同は「国防研究会」を作り、生長の家は「ニューソート研究会」「精神科学研究会」などを作っていた。
早稲田には、いくつもの学内新聞があった。一番大きい早稲田大学新聞は革マルだった。立松さんの入った「早稲田キャンパス新聞会」も党派の争いがあり、立松さんは除名になっている。「政治的意見」を持っていたから内部で闘い、敗れ、除名になったのだろう。政治的意見がなくて、党派が嫌いだというのなら、ただ辞めればいいわけだ。ともかく、政治的意見を持ち、デモや集会にも出て、学生運動をやったのだ。そのことは、『激論・全共闘。俺たちの原点』(講談社)の中で、本人が証言している。
〈僕は1966年に大学に入ってきたわけです。66年は早大闘争のまっ最中で、新入生として入ってきたわけです。要するに田舎の高校生が何もわからないで騒然としたところに入ってきて、それから僕は5年間大学におったんですが、まあ、一兵卒というか、デモのうしろにくっついて、いくつかの現場に立っています。僕自身は組織の指導者でもなく、ただうしろにくっついてた人間だけど、その後の自分の生き方にあの全共闘体験がやっぱり大きく影響してる。それを今も引きずってます〉
運動に引き込まれて、それでどう思ったのか。どうなったのか。と司会の田原総一朗さんは聞く。立松さんは答える。
〈まあ、はやくいってしまえば、一歩一歩の歩行が世界を発見するみたいな、世界と出会っていくみたいな、そういうダイナミックな時代だったんですね。うしろにくっついた人間でも世界と向き合っていたというのかな。そういう、ひじょうに生き生きとしてたダイナミズムがあったと思います。静かな田舎からでてきた人間には、その展開がよけいに強烈だった〉
これは分かる。〈世界〉を見たのだ。〈世界〉と向き合い、動かしていく。その手応えを感じたのだ。しかし、5年で大学を出たあとは、小説家を目指す。運動の世界からは足を洗う。他の仲間では、ずっと運動を続けてる人間もいる。じゃ「転向」じゃないのか。田原さんはこう問う。
〈立松さん、どうですか。まあ転向というか、もう撤退していまは全然違うことをやってると。これは無責任じゃないかと。まあ、ざっくばらんにいえば鈴木さんはそういうことをいってるんだけど〉
ここに出てくる「鈴木さん」は私だ。実は、この闘論は26年前のものだ。中上健次、高橋伴明、立松和平、前之園紀男の元「全共闘」に対し、元「右翼学生」が1人で立ち向かっていた。ところで、立松さんは私の挑発に対し、こう答えていた。
〈いや、それはぜんぜん違うと思うね。つまり僕も一家を張ってものを書いてる小説家でね、表現というものに僕は命を賭けてます。で、そういうことに関してはもう、一歩も引けないし、当時立ってたポジションから僕のいまの表現の現場は下がってるかというと、ぜんぜんそうは思わない。そうしたら書くのをやめます〉
文闘宣言だ。今も闘っている。学生時代と変わらないと豪語している。
この討論会が行われたのは26年前と書いたが、1984年の6月だ。池袋文芸座でやった。テレビ朝日が企画・放映した「君は今 燃えているか!カゲキ世代が激突討論」だ。朝まで激論した。客席も満員。熱い討論が展開された。そのダイジェスト版をテレビ朝日が放映。そして『朝日ジャーナル』に載せた。さらに〈完全版〉を講談社から単行本として出した。同じ年の12月に出ている。
この本は、なかなかいい本だ。文芸座を出て、さらに居酒屋で激論した。又、終わって、各人のコメントも入ってるし、他にも筑紫哲也や、北方謙三さんなどもインタビューに応じている。司会は田原さん。テレ朝。朝まで激論。この三つがあると、あれっ「朝生」と似てる。と思うだろう。実は、この「激論・全共闘」の2年後、これを基にして「朝まで生テレビ」は生まれたのだ。さらに、その2年後には「サンプロ」(サンデープロジェクト)が始まる。(しかし、今年3月で終わってしまった。残念だ)
『激論・全共闘。俺たちの原点』は、「朝生」の原点にもなった。そして、「サンプロ」の原点にもなった。今、読み返しても、なかなかいい本だ。中上さん、立松さんは亡い。立松さんの追悼企画として復刊したらいいのに。あるいは文庫本にするとか。講談社の人に言ってみよう。
さて、5年かかって早稲田大学を卒業した立松さんのその後だ。追悼集の「略年譜」に戻る。学生運動をやりながら、日本各地をバックパッカーとして歩き回る。アジアや沖縄を旅行する。この頃から小説を盛んに書く。
〈1970年2月 『途方にくれて』が「早稲田文学」に掲載される。これを機会に作家になる決意をする。集英社の内定を取り消してもらい、大学も留年し、山谷や築地でアルバイトをしながら小説書きに励む〉
そして、結婚。生活は苦しく、土木作業員や病院の臨時職員などの職を転々としながら、小説を書き続ける。そして、結婚した妻を実家に残し、インドに旅立つ。11月、長男誕生。インドから帰る。子供も出来たし、こんな不安定な生活ではダメだと思ったのだろう。
〈1973年3月 宇都宮市役所に就職し、生活の立て直しを図りつつ執筆活動は続ける。以後、78年12月まで勤務する〉
苦しい時代が続いたんだ。三島由紀夫は大蔵省に勤めながら小説を書いていたが、立松さんも、宇都宮市役所に務めながら書いていた。その苦労の甲斐があって、1979年、『閉じる家』『村雨』が立て続けに芥川賞候補となり、1980年、『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞する。翌1981年、根岸吉太郎監督による映画『遠雷』が公開される。
これは素晴らしい小説だった。映画もよかった。後に、この続編の『春雷』を書く。さらに『性的黙示録』『地霊』を発表する。これは、〈『遠雷』4部作〉と呼ばれる。私はこれが一番好きだし、立松さんの代表作だと思っている。若々しいし、健康的なエロティシズムもある。「高級ポルノ小説」のように思える部分もある。あの真面目で、シャイな和平さんが、こういうのも書くんだ、と感心した。当人にそう言ったら、「いやあ」と言って、照れていた。多くを語らない。
『遠雷』が映画化された3年後に、「激論・全共闘」が池袋文芸座で行われた。作家として広く認められ、代表作も発表した。だから、「小説を書くことで、今も闘っている」「自分で店を張っている」と自信に満ちて語っていたのだ。
しかし、本当にブレイクしたのは、この2年後だ。1986年。1月から、テレビ朝日の「ニュースステーション こころと感動の旅」にレポーターとして出演。以後、テレビや雑誌の取材などで国内外の各地に旅行をする。
全国を回り、「自然って、いいもんですね!」「これは感動です!」と言う。あれで、お茶の間の人気者になった。忙しくて大変だったろう。いつ小説を書くんだろうと思った。今、気付いたが、この番組もテレ朝だ。もしかしたら、「激論・全共闘」で、テレ朝のスタッフと知り合い、それで、この企画が実現したのかもしれない。又、同じ年、「朝生」もスタートしている。これは確実に「激論・全共闘」の延長線で生まれた企画だ。とすれば、1984年の「激論・全共闘」から、〈全て〉が始まったのだ。
和平さんの連発する「これは感動です!」は一躍、国民の人気となり、「流行語大賞」になった(そんな賞はまだないが)。お笑いのTNP(ザ・ニュース・ペーパー)もよく、舞台で和平さんの真似をしていた。くたびれたジャンパーを着て又兵衛さんが舞台に現れ、「自然は偉大です!」「これも感動です!」と叫ぶ。客がドッと湧く。
ところが、次の瞬間、本物の立松和平さんが登場する。これには客も二度ビックリ。「僕はあんな言い方、するのかな?」と本物。「してますよ」と偽者が言う。面白かったですね。
「人気者」になり、「全国区の知名度」になった。しかし、そこに〈事件〉が起こる。「ニュースステーション」に出始めてから、7年後だ。
〈1993年10月 雑誌連載中の「光の雨」が連合赤軍で死刑が確定している坂口弘から自著『あさま山荘 1972』からの「盗作・盗用」ではないかと抗議を受ける。「安易な形で引用した」と謝罪し、連載を中止する。『光の雨』は全面的に改稿し、新潮社より刊行(1998年7月)、2001年には早稲田大学の後輩高橋伴明監督により映画化される〉
この「盗作・盗用」事件は今でも不可解だ。連合赤軍の当事者の証言は、永田、坂口、植垣…と、ほんの数人の著作があるだけだ。だから、それを参考にし、下敷きにするしかない。引用もあるだろうし、同じ表現を使うこともあるだろう。小説が終わった後、「○○さんの本を参考にさせてもらいました」と書けばいいのではないか。私はそう思った。でも、「盗作・盗用」騒ぎになった。
和平さんもこの騒動で、嫌になったのだろう。「もう、やめた!」と言いたかった。でも責任感の強い人だから、初めから全部、書き直した。大変な作業だ。そして、初めは実名で書いてたものを、全部、匿名にした。(これでは誰が誰か分からない)。そして、書き続け、完成させた。気の遠くなるような作業だ。精神的・肉体的にも、かなり参ったと思う。(私の思い過ごしかもしれないが)、それから、急に宗教的な作品、仕事が多くなる。1999年には長年通いつめた知床(斜里町)に毘沙門堂を建立する。後に、太子堂、観音堂も建立。毎年6月の第4日曜日に、地元の人々と共に記念式典を行う。
2002年、歌舞伎座上演の「道元の月」の台本を書き、大谷竹次郎賞を受賞する。
実はこの時、私は歌舞伎座でバッタリと和平さんに会った。この頃は、私は河合塾、ジャナ専で教えていたし、それに月刊、週刊の連載があったので、金銭的に少々、余裕があった(今と違い)。それで、毎月、歌舞伎、文楽などを見に行っていた。ほう、今月は「道元の月」か。なら、和平さんが原作だよ。以前は、『春雷』のように色っぽいものを書いていたのに。と思って見に行ったら、その和平さんに会ったのだ。
原作者なんだから、一般公演じゃなくて、その前の特別な舞台の時に見るんじゃないの。と思って聞いたら、「それが嫌なんです。だから、自分で切符を買って、一観客として見に来ました」と言う。偉いですね。「それで、よかったですか?」「いやー、よかったですね」と誉めていた。でも自分の脚本を誉めるのではなく、純粋に舞台と役者を誉めていたんだ。
この後、道元は、本格的な小説にする。そして、2007年、『道元禅師』(上下)で泉鏡花賞を受賞する。又、2008年、同じく『道元禅師』で親鸞賞を受賞する。この時、受賞パーティで私は和平さんに会った。元気だった。「宗教的な小説ばかりやらないで、又、『遠雷』のようなアナーキーで、色っぽい小説も書いて下さいよ」と私は言った。生意気にも言った。小説のことなど何も分からないのに、大作家に失礼なことを言ってしまった。でも和平さんは、ニコニコして、「うん、それもいいね」と言ってくれた。
翌2009年12月、『立松和平全小説』(全30巻。勉誠出版)の刊行が始まる。(現在第3巻まで刊行)。全著作は300冊以上だという。凄い。でも、この全集が刊行され始めた2ヶ月後の2月8日、亡くなった。62才だった。全集の出来上がるのを待っていたかのように。この全集を人々への形見に残して、立松さんは天上へと旅立っていってしまった。
②高橋伴明さんは立松和平さんの早大の後輩です。和平さんの小説『光の雨』を伴明さんが監督で映画化しました。26年前、『激論・全共闘』の時は、和平さん、伴明さん、そして私も出ております。私はこの時、2人に初めてお会いしました。
③左から、木村三浩一水会代表。私。麿赤児さん。茅島さんです。茅島さんは昔、暴れていましたが、今は河合塾の先生です。麿赤児さんは俳優です。学生運動で暴れてましたが、卒業後は、三上卓さんや保田輿重郎さんをよく訪ねて、話を聞いていたといいます。民族派なんだ、と思いました。
④元ブントの親分の三上治さんと。外で一緒に2時間も並びました。弔辞はマイクで外に聞こえるのですが、とても寒かったです。終わって、近所のファミレスに行きました。チラッと見たら、小谷野敦の『恋愛の昭和史』を読んでました。フーン。革命家もこんな本を読むのか、と感心しました。
⑪この出版記念会では、いろんな人に会いました。歌手の加藤登紀子さんに会いました。元全学連委員長・藤本敏夫さんの奥さんです。藤本さんも若くして亡くなってしまいました。いい人でした。奥さんと2人で「トークと歌の集い」をよくやってました。
⑭3月26日(金)、27日(土)の2日間、阿佐ヶ谷ロフトで劇団再生のお芝居「演劇機関説・空の編」が上演されました。その前に「再生」代表の高木尋士さんと私のトーク「読書の暮れ方」をやりました。ただし、26日(金)は、大阪に行ってたので、芝居が終わってからトークをやりました。27日(土)は、予定通り、始まる前にやりました。
⑮ロフトの中は白い布が、びっしりと張り巡らされています。文字が書いてあります。空には文字が一杯。天上も地上も「言葉」で埋め尽くされている。そんな情況をあらわしているのでしょう。
トークをしてる時、「あっ、言葉を忘れた」と高木氏。天に言葉をとられたのでしょう。この布に文字を書くために80時間も費やしたといいます。無償の仕事です。大したものです。
でも、この白い布はこの日で終わり。勿体ないです。それを惜しんで、皆、写真を撮りました。右は大阪から来た「再生」の熱烈ファンで、吉本さん。その左は見沢知廉氏の同志だった設楽秀行さんです。