夢がないよな。政治の世界は。偏狭だし、独善的だし、排外的だ。想像力も、創造性もない。その点、アートには夢がある。創造性がある。
政治家も、市民運動家も、右や左の翼を持った人々も、政治評論家も、ネット発言者たちも、夢がない。〈美しさ〉がない。独創性がない。他人の発言に難癖をつけ、怒鳴っている。極め付けて、批判する。批判する「他人」がなければ、自分は何も言えない。自立自存の志がない。これでは、ただのクレーマーだ。モンスターだ。
そうなんだ。クレーマーばっかりだ。「一億総クレーマー」だ。彼らに〈情報〉を提供しているのが、新聞・週刊誌・テレビ・ネットだ
いや、〈情報〉じゃないな。〈餌〉だ。クレーマーという怪物の為の〈餌〉だ。その餌を貪欲に食べて、クレーマーは叫ぶ。「政治が悪い!」「国が悪い!」「弱腰だ!」「中国、韓国、北朝鮮をやっつけろ!」「愛国心を持て!」…と。
目立つ人間には皆、文句をつけ、引きずり落とそうとする。政治家であれ、スポーツ選手であれ、、芸能人であれ、作家であれ。そして、自分たちの「低み」にまで引きずり落とし、〈平等〉にしようとする。それが「民主主義」ならば、何と下らない民主主義なのか。
その点、アートはいい。悪平等がない。民主主義がない。「皆と同じことを考え」「皆に賛同されることを目指す」民主主義(つまりこれが政治だ)からはアートは生まれない。アートは民衆の中にあって、民衆から屹立している。平等なスタートに立ちながら、平等を超越している。
アートは「若さ」だが、政治は「老い」だ。その証拠に、老いて、売れなくなったアーティストが政治の世界に転身することはあっても、政治の世界からアーティストになる人はいない。元歌手、元運動選手、元漫画家、元監督、元女優…たちがテレビに出て、ワイドショーや討論番組でお喋りしてるのも、疑似「政治」だ。小「政治」だ。
アーティストの戦列で荒ぶる魂を失ったのなら、もう消えたらいい。参議院に出たり、テレビ・コメンテーターになったり、週刊誌にエッセーを書いたり…。そんなことで「生き延びる」必要はない。美しくない。醜悪だ。これでは〈政治〉は、元アーティストの〈墓場〉になってしまう。
いろんな政治的集会や寄り合いで痛感することがある。「若さ」がない。「独創性がない」。右も左も、市民運動も政治的集会に集まる人々は老人が多い。昔は、過激に闘っていた「若者」だったんだろうが。
でも、今は老人だ。言ってることも、古い。くどい。分かりづらい。あれあれ、俺は本当に〈現世〉に住んでいるのか、と一瞬思う。もう、「あの世」にいて、亡霊たちと一緒に集会をしているのか。と思うこともある。ゴーストの世界だ。オラだけでも、ゴースト・バスターズにならなけりや。「お化け退治」だ。でも、聞こえるよ。「ペッ!右翼のくせに! お前だって、ゴーストだよ」と。
救援連絡センター事務局長の山中幸男さんが言っていた。「元」が付く人間は皆、ロクでもないと。元妻、元カレ、元議長、元歌手…と。今やってることがないから、「元」を言うしかないのだ。それに、「元」がシャシャリ出てくるのは、スキャンダルをばらすとか…。いい事はない。舛添要一の元妻が証言する「結婚生活」とか。この人も国会議員なのに、「元妻」となると、ただの暴露話になる。下らん。
国会議員やタレントの元カレ、元カノが出る時も、皆、陰口、悪口ばかりだ。よど号の「元妻」も、「私が悪うございました」と証言していた。赤軍派の「元議長」も生きてるのに「生前葬」をやった。又、『創』(6月号)に紹介されてたが、この元議長は、「よど号」の帰国問題について、凄い事を言っていた。
「よど号」グループは1970年にハイジャックで北朝鮮に渡った時は9人だったが、今は4人だ。40年も北朝鮮にいる。そして望郷の念、やみがたく、今年中にも帰国したいと言っている。帰国したら、逮捕され、懲役15年から20年は喰らう。それでも帰りたいという。美しき祖国に帰りたいのだ。望郷だ。祖国愛だ。
ところが「元議長」の塩見さんは、「そんな綺麗事ではない。命が惜しいからだ」と言う。今、北朝鮮は政情不安定だ。もし暴動が起こったら、「よど号」グループも危ない。贅沢な「お客様」だし、「特権階級」だ。人民はそう思い、憎悪が集中する。そして、「よど号」も襲われる。人民に殺される。その前に、「脱北」しよう。40年前、北朝鮮に「亡命」した彼らは、今度は日本に「亡命」しようとしている。…そう言うのだ。
いくら何でもそれはないだろう。「よど号」の人達は命を捨てて、覚悟を持って北朝鮮に渡った。人民を信じ、人民のための世界革命をやろうとしたのだ。もし、その志が伝わらず、人民に殺されるのなら、それも甘んじて受ける。そういう覚悟を持った人々だ。と、私は思う。
北朝鮮に詳しい人に聞いたら、「暴動が起こるのならば、まだいい」と言う。人民が立ち上がれる情況ではないという。だから「元議長」の言うことは二重に間違っている、と言う。まぁ、まともに取り上げる方が馬鹿だ。だって「元議長」は「葬式」をやって、もう死んだ人だ。死んだ人のことを批判しても仕方ない。
ところで、『創』で「元議長」発言は紹介されてたというけど、誰が書いたのだろう。よく分からないが、右翼団体の「元会長」が書いたらしい。こいつも「元」だよ。今、何もしてない。今、誇るべきものがない。だから、「元」なんだ。こいつも下らないよ。信用できん。でも、言ってることに嘘はないようだ。『創』を買ってみて、確かめたらいい。
思い出した。『美術手帳』(3月号)で、森村泰昌さんに言われた。「鈴木さんはもう右も左も超えている。アーティストとして活躍したらいいのに」と。そんな、私なんて無理ですよ。恐縮した。それも、世界的アーティストの森村さんに言われたのだ。おしょしいわ。(あっ、こんな言葉を書いちゃった。自動書記だ。秋田の方言で、「恥ずかしい」という意味だ。不思議だな。感極まると、忘れていた方言がフッと出てくる。55年ぶりに使った。これもアートだ)。
あの時は大阪の森村さんの仕事場を訪ね、近くの真田山公園、旧陸軍墓地に行き、森村さんがやっていたお茶屋さんに行き、そこで、ずっと話し込んだ。三島の話、山口二矢の話、マリリン・モンローの話、お茶の話…をした。そして、芸術の話をした。『美術手帳』(3月号)の対談のタイトルは「お茶と芸術・ちょっと“ミギ”よりな話」になっている。壮大な話になった。最後は、こう結ばれている。
〈森村 これは半分冗談で半分本気ですが、僕はむしろ鈴木さんを芸術に引き込みたい。ものの見方が普通の人とは全然違うんですよ。もし僕がどこかの美術館の学芸員だったら、ゲスト・キュレーターとして鈴木さんに展覧会を企画してもらいますね。右翼だから戦争画になると思ったら大間違いで、なんかとんでもない展覧会になりそうです。先ほどのお話だと、僕はどうも右翼のほうに行っているらしいので(笑)、鈴木さんはアーティストとしてやってもらったらいいと思う。鈴木 では、いまはお互いがその交差点にいるということで(笑)〉
といった話になったんだ。その時は、ただ社交辞令というか、冗談で、言われたんだと思った。でも今、読み返してみて、少し考え直した。右も左も、もう突きつめたし、人間も知り尽くした。
じゃ、そこを超えるか。「超翼の世界」となったら、もう、アートになるしかないのか。政治の世界にいる限り、何を言っても誤解されるし、いつまでたっても、「レッテル貼り」をされる。先がない。よし、思い切って、飛んでみるか。
そうだな。じゃ、美学校に入ろうか。そこで勉強し、アーティストになる。知り合いの先生もいるし、何度も美学校のイベントには出ている。若い、才能のある学生も多い。そこに混じって勉強したら、私の芸術的な潜在的才能も引き出されるかもしれない。中島君や柳川さんのような最先端の芸術作品を描けるようになるだろう。
そうだ。5月4日(火)も、美学校のイベントに参加してきた。前に紹介したが、〈美学校 内海信彦 絵画表現研究室 行使膣展記念イベント〉だ。内海さんは現代アーティストとして有名だ。美学校の他に、河合塾コスモなどの予備校でも教えている。私はコスモで知り合った。去年だったかな。この美学校のイベントで内海さんと私はトークをした。超満員だった。あの時も、この文房堂ギャラリー(神田)だった。あの時も、中島君の「乱入パフォーマンス」もあった。と思い出した。
ところで今年(5月4日)の「行使膣展」とは何だろう。どういう意味なのか。何を表現しようとしているのか。自分たちの全存在を賭け、内部まで含めて、全てをさらけ出して表現する。という決意・覚悟なのかもしれない。
5月4日(火)は午後2時から開始。内田輝さん(サックスプレイヤー)とP.A.N.Aproject(サウンドクリエーター)の演奏。それが終わると、対談の内海信彦さんと宮台真司さん(社会学者)が登場。
では、今日のテーマ「シャカイとゲージツ」について対談が始まる。という予定だったが、そんな予定調和にはさせるものか、と例の如く、中島晴矢君(美学校2年生)が乱入する。パンツ1枚の上に、ビニールのレインコートを着ている。そこには「革命無罪!」「世界同時革命!」「ハイジャック闘争支援!」とか言った過激なスローガンが書かれている。
…ようだ。よく読めない。そうだ。「中核派」ではなく、「陰核派」と書かれている。意味が分からん。さらに、ヘルメットをかぶり、ハンドマイクを持って、絶叫する。昔の全共闘のような演説だ。昔の全共闘のやったことを一生懸命、真似てやっている。もう日本の「古典芸能」だね、これは。
何か分からんが、叫んでいる。怒鳴っている。「今の日本が悪い。政府が悪い。共に立ち上がろう!」と訴えている。革命のために決起しよう!とアジっている。
でも大衆は(この記念イベントに集まった学生、青年は)立ち上がらない。当然だ。ヤケになった中島君はレインコートを脱いで、パンツ1枚になる。そして、パンツに仕込んだ爆竹に火をつける。「自爆テロ」だ。
爆竹が跳ねて、本人も悲鳴を上げて、飛び跳ねる。飛び回る。悶絶する。会場は大混乱だ。これが「行使膣」なのか。爆竹の痛さに耐えかねて、パンツを脱ぎ捨てる。フルチンだ。「キャー!」と女子大生の悲鳴が聞こえる。泣き出す女子高生もいる。「若い男のチンチンを久しぶりに見た」と興奮するOLもいる。何でもありだ。外でやったら犯罪だ。どこでやっても犯罪だ。猥褻物陳列罪だ。人間そのものも「猥褻物」だ。
でも、ここではアートなのだ。アートなイベントでやれば、どんな猥褻なこともアートなのだ。「アート無罪」だ。アート最強だ。
フルチンのまま中島君は椅子に座り、「司会」に変身。そして内海vs宮台の対談は始まった。非日常と大混乱の中で対談はスタート。なお、この対談の内容は左翼雑誌『情況』に載るそうだ。だから革命的対談なのだ。
「でもなー。これも“終わりなき日常”なんだよ」と宮台さんは醒めている。「中島君が乱入し、裸になる。いかにも非日常のように思える。でも、その騒ぎも収まり、こうして椅子に座り、司会している。そこまで分かっている。日常に取り込まれた非日常だ。これでは意味はない」と中島君に辛口のアドバイスをする。
「非日常というなら、鈴木さんの生活こそ非日常だ」と、突然、話がこちらに向かってくる。
「やってることが毎日、非日常だ。乱闘、襲撃、拉致、監禁、殺人、死体遺棄、ガサ、逮捕…。それが毎日だ。非日常が日常だ。これこそがアートだ」。ゲッ!そんな!誉めてくれるのは嬉しいけど、今はそんなこと、やってませんよ、あまり。でも、そんな荒んだ、猛々しいことが日常だったことはありましたね。もう、やりたくないが。でも、アーティストになったら、「終わりなき非日常」が始まるのかもしれない。怖い。
内海さんと宮台さんの対談は面白かったし、刺激的だった。終わってから、打ち上げに行った。そうだ。この日は展示会なのだ。だから、ギャラリーでやっている、中島君の「フルチン乱舞」だけが作品なわけじゃない。ギャラリー全面に、内海先生の作品や美学校生徒の作品が飾られている。皆、大作ぞろいだ。体を賭けたアートだ。
内海さんのは、中島君を「画材」に使った大胆なボディ・ペインティングだ。中島君を裸にし、全面に絵の具を塗り、大きな紙に押しつけて、それで「拓本」を取る。それも冬の寒い時に、内海さんの山の中のアトリエでやったそうだ。内海、宮台さんのトークの時、後ろに掲げられてたのがその絵だ。体の全てのパーツも、くっきりと出ている。
でも、中島氏は単に「画材」だけの人生には満足していない。「全共闘」のパフォーマンスをやったり、「三島由紀夫」のパフォーマンスをやったりする。パフォーマンス・アートの人かな、と思っていたら、何と絵も描く。
今回はそれも紹介しよう。なかなか、いい。うまい。さすが美学校の生徒だ。もう1人、美学校3年生の柳川たみさんの絵も驚いた。これも「肉体言語」だ。いや、肉体を使った芸術だ。前に自らの乳房の「拓本」を発表していた。アートだ。凄い。ここまでやるのかと思った。勇気がある。
そして今度は、さらに、その上をゆく。題は、「曼陀羅」。えっ、まさか?と思ったが、気が弱くて聞けなかった。ともかく、究極の拓本らしい。体を張ったアートだ。アート最強、アート無罪だと思った。
でも、わたしが美学校に入ったら、こういう凄い先輩のあとに、何が出来るのだろう。不安だ。それよりも、この夏は、いろんなイベントがある。それで忙しい。それを考えると、頭が痛い。危ないイベントばかりだ。
森村泰昌さんの「写真展」は終わってホッとした。ヒトラー、三島、山口二矢だけでなく、なんせ、「昭和天皇とマッカーサーの会見」までやっていた。歴史的事実なんだし、アートだし、文句のつけようがない。ただし、「不敬だ!」と攻撃されるかもしれない。心配したが、無事に終わった。安心した。
6月には日本のイルカ猟を撮り、「反日映画だ!」と攻撃されている「ザ・コーヴ」が上映される。6月9日(水)には上映・シンポジウムが行われる。私も出る。きっと大荒れに、荒れるだろう。抗議の人々も押しかけるだろう。恐い。
又、若松孝二監督の映画「ザ・キャタピラー」も騒がれている。8月上映だ。私も推薦文を書いた。決して「反日映画」ではない。単なる「反戦映画」でもない。でも、大騒ぎになるだろう。
さらに、5月20日には、朝日新聞出版から『空想 皇居美術館』という本が出る。危険だ。皇居に日本中の美術品を集めようという、あくまでもアートであり、空想なのだが…。その本には私も座談会で出ている。危ない発言もしている。さらに、6月19日(土)には、その危ない本の出版記念トークがあって私も出る。大丈夫なんだろうか。不安だ。
さらに…。何と…。いや、これは書かないでおこう。ヤバイ。ともかく、今年の夏は熱い。デンジャラスだ。怖い。8月2日は私の誕生日なのだが、果たして、今年は誕生日を迎えられるのだろうか。
①5月4日(火)午後2時より、神田・文房堂ギャラリーで。美学校・内海信彦絵画表現研究室「行使膣展」記念イベント。対談をした宮台真司さんと内海信彦さん。手前は美学校2年生の中島晴矢君。顔は三島由紀夫になっております。
③このあと、「自爆テロ」。そして、やけで「全裸」道。そのまま、宮台vs内海トークの司会をやりました。マイクを手前に置くだけで…。後ろの大きな絵が中島君の「全裸拓本」です。全てのパーツがはっきりと出ています。凄いですね。描く方も、モデルの方も。
④中島晴矢君と彼の作品です。立派な作品です。仏像や曼陀羅が描かれています。ちょっと色っぽいものもあります。凄い才能です。家族もこの天才を温かく見守り、期待しているそうです。
自分で色っぽい作品を描いてる時に、自分の作品に興奮し、欲情し、つい手が…。それをお母さんに目撃され、「…」。妹に目撃され、ただ一言、「不潔!」と言われたそうです。温かい家族です。それを、「再現ドラマ」にして、上演してもらいたい。家族にも出てもらったらいい。これこそ、日常を超える非日常のアートです。アートは革命です。宮台さんも感動するでしょう。
⑤美学校3年生の柳川たみさんと。彼女の作品の前で。中島君と同じく、テーマは「曼陀羅」です。中島君以上に、体を張った大作です。ただただ圧倒されました。
若いのに「たみ」さんと、名前がクラシックだ。きっと伊藤左千夫の『野菊の墓』から取ったのだろう。お父さんが若い頃、そんな恋をしたのかもしれない。
そう思って聞いたら、違っていた。お父さんは学生運動をやっていて、「人民の為に闘う」「革命だ!」と言っていた。人民の「民(たみ)」から取って「たみ」さんだそうな。やはりアーティストは違う。皆、革命家だ。生まれた時から革命家だ。中島晴矢君だって、山口二矢から取って「晴矢」と付けたという(説もある)。
⑥それに比べたら、鈴木も邦男も平凡だ。アートじゃない。「鈴木」という姓のルーツは和歌山の神社だ。しかし、小金井市には「鈴木町」というのがあるとネットに出てたので、「故郷」を訪ねてきた。あった。「鈴木町公民館」も訪ねたが、もう取り壊されていた。いかんよな、鈴木を破壊しちゃ。
⑦後藤昌次郎さんと。5月8日(土)午後1時。目黒さつき会館。「反権力・反冤罪・反戦・平和、人間解放を闘う『若き仲間』のつどい」。要は、86才の「青年弁護士」後藤昌次郎さんの出版記念会だ。日本評論社から立て続けに3冊の本を出した。
「この人を見よ 後藤昌次郎の生涯」のシリーズで、①『野人の誕生』②『原点松川事件』③『冤罪の諸相』。
いい本です。凄い本です。とても勉強になり、力づけられました。
⑩神奈川大学教授の常石敬一さんと。常石さんは昭和18年生まれで私と同じです。常石さんは『青春の墓標』の奥浩平と中学が同級生です。
他にも、浅沼委員長刺殺の山口二矢、「風流夢譚」事件の小森一孝、そして、「赤報隊事件」の黒幕…と。昭和18年生まれは、〈危ない人物〉が沢山おります。1960年当時は、「恐るべき17才」と言われたんだそうです。私は関係ないから、知らないけど…。
⑫5月8日(土)ネーキッド・ロフト。伊勢崎賢治さんと「平和構築学」について話をしました。左は司会のマエキタミヤコさんです。「平和と戦争」について、じっくりと話し合いました。とても教えられましたし、実りのあるトークになったと思います。
⑭伊勢崎さんはトランペットを吹いて、「ジャズ・ヒケシ」の人たちと演奏してました。ヒケシは「火消し」なんでしょう。メンバーの背中には、「謹んで、戦争をおことわりいたします」と書かれていた。センスがいい。気に入りました。