2010/06/21 鈴木邦男

「ばばこういち」という生き方

①人を誹らない。人の足を引っ張らない

ばばこういちさん(堤大介画)
ばばこういちさん(堤大介画)

こういう生き方もあるんだ。と感動した。実に爽やかな人だった。清々しい人だった。奥さんが言っていた。「他人の足を引っ張ったことは一度もなかった。正々堂々と生きてきた」と。なかなか、出来ないことだ。それも、ジャーナリストなのだ。ばばこういちさんだ。

今年4月9日、亡くなった。77才だった。6月4日(金)、午後6時から「ばばこういちさんを送る会」が行われた。グランドプリンスホテル赤坂・別館5階ロイヤルホールだった。1番大きな部屋だが、満員だった。皆に愛されていた。皆に惜しまれて亡くなった。

ばばさんは、ジャーナリスト一本で生き抜いた人だ。テレビを中心に、取材し、報道し、主張した。勿論、人を批判することもある。糾弾することもある。しかし、堂々とやった。誹謗中傷はしなかった。他人の足を引っ張ることもなかった。

奥さん(馬場美耶子さん)はそう言う。自分のことを考えてみたらいい。こいつは許せない。何でこんな奴がいい目をしている。それに比べ俺は…と、他人を妬み、僻むことは多いはずだ。口にだって出す。足を引っ張る。皆、多かれ少なかれ経験あるだろう。私なんて、僻みっぽいし、コンプレックスの塊だから、いつもそうだ。嫌な人間だ。

でも、ばばさんはそれがない。これは奇跡的だ。取材の時も、テレビの司会の時も、実に爽やかだ。出席者に嫌な思いをさせない。怒鳴らないし、嫌な質問をして相手がムキになって反論することもなかった。起こらせて喋らせることもなかった。それでよく司会が出来たと思うが、そこは、ばばさんの人柄なのか。不思議だ。皆が気持ちよく喋る雰囲気をつくる。それがうまいのだ。

当日、配られた「ばばこういち 77年の軌跡」という小冊子がある。表紙は、ばばさんの写真だ。と思ったら、堤大介さん(長男)が描いた絵だった。眼がいい。眼が光っている。眼力(めぢから)がある。どんな人々をも魅了するような深い眼だ。皆を愛する温かい眼だ。

右が司会のばばさんです
右が司会のばばさんです

特に、若い時の眼は、そうだ。大杉栄は「眼の男」と言われたが、ばばさんもそうだ。こんな眼で見つめられたら誰だって、ドキドキしてしまう。引きつけられる。嘘も言えない。

元々はアナウンサーとして出発した。洗練された都会人としての歯切れのいい語りで定評があった。でも、東北での生活が長かったのだ。これは知らなかった。生まれたのは東京だが、昭和20年5月、疎開により山形県立山形中学校に1年で編入している。12才の時だ。それから東北暮らしが始まる。

昭和23年、山形県立山形東高校に入学。昭和26年、東北大学経済学部入学。仙台に住んでいたんだ。仙台の話も聞けばよかった。知らなかった。じゃ、ばばさんも「同じ東北人」じゃないのか、と思った。

大学を卒業して、すぐに大和証券に勤めるが、翌年退社し、文化放送にアナウンサーとして入社。生まれは東京だが、中学、高校、大学と東北だ。東北弁の中で、どっぷり浸かって生活していた。それを直して、アナウンサーになるのは大変だったようだ。そのために必死の努力をした。「しゃべり方」の学校に通った、という人もいる。いや、「東北訛りを直すためにアナウンサーを受けたのだ」という人もいる。説が分かれる。

しかし、大変な努力だ。努力の人だ。目的に向かって、ひたむきに努力する。東北人のいい所だ。東北人のひたむきさで、東北弁を直したのだ。

②市民運動にも飛び込んで…

ばばこういち『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版)""
ばばこういち『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版)

文化放送に入ったばばさんは、その後、フジテレビ、東京12チャンネルに移り、そして。

〈1966(昭和41)年3月。大量首切り争議にあたり、正義を主張して退職。フジテレビからの復帰の誘いを断って、フリージャーナリストとなる〉

なかなか出来ないことだ。人生の重要な岐路に差し掛かった時、「楽な道」ではなく、あえて「厳しい道」を選ぶ。凄いと思う。首切りがあって、自分がそこに入っていなければ、「ああ助かった」と思う。さらに、「俺はそれだけここでやる使命があるんだ」「自分の力を会社は認めてくれたんだ」と安堵し、満足する。しかし、ばばさんは違う。主張を貫いて、自分から辞めたのだ。さらに、フジテレビからの誘いも蹴って、フリーになる。多分、家族の反対もあっただろう。でも曲げない。

そして、フリーとして、努力し、自らの出番をつくっていく。その立場を爽やかと思い、立派と評価したところから次々と声がかかり、仕事が拡がる。

〈1968(昭和43)年4月。テレビ朝日「長谷川肇モーニングショー」の副司会者として、テレビ界デビュー、以後、日本テレビ「あなたのワイドショー」レポーター、テレビ朝日「アフタヌーンショー」『納得いかないコーナー』担当、毎日放送「ドキュメントトーク」キャスター、北海道放送「朝まで生討論」キャスター他、数多くの番組に出演、テレビ・ジャーナリストとして活躍する〉
堤未果さん、川田龍平さんと(6/4)
堤未果さん、川田龍平さんと(6/4)

ばばさんは、引っ張りだこだった。鋭い中にも愛情のある語り口。人柄、人間のネットワークetc。それらが評価されたのだ。北海道放送の「朝まで生討論」というのは、噂には聞いてたが、本当にあったんだ。テレ朝の「朝まで生テレビ」の始まる前だ。それに、大阪、名古屋、さらに九州でも、いろんな討論番組があった。火付け役は、ばばさんだったんだろう。

又、ばばさんは、市民運動や、選挙にも積極的に関わる。1977年(昭和52年)3月の革自連(革新自由連合)の発足に参加。この後、10年にわたり市民運動を積極的に行う。革自連候補として自らも出馬するが、横山ノックのみ当選した。

実は、革自連の初期の段階では、竹中労が中心になり、五木寛之や野坂昭如や、いろんな人に呼びかけて、広範囲な政党をつくろうとした。その時、私も声をかけられた。多分、その頃、ばばさんと初めて会ったと思う。(しかし、竹中さんは、すぐに手を引き、私もつながりがなくなった)。1980年(昭和55)年にはばばさんは、革自連から中山千夏を参議院へ送り込むことに尽力する。(革自連は1986年に解散)。

③新しい「闘論の場」をつくった

鳥越俊太郎さん、増山麗奈さんと
鳥越俊太郎さん、増山麗奈さんと
 

市民運動10年を経て、再び、テレビジャーナリズムの世界で脚光を浴び、意欲的に仕事をする。

〈1986(昭和61)年4月。この年3月にCS朝日ニュースターが開局。同局で、「ぶっちぎりトーク」「マルチメディア・スペシャル」「JCトーク」「ジャーナリズム最前線」「よみがえれニッポン」などの番組を2009年6月まで連続してプロデューサー兼キャスターとして担当。その間、テレビ東京で「私が作った番組—マイテレビジョン」「キャスター」「ドキュメント・シリーズ・ザ・21世紀」。朝日にニュースターでは「蘇れ大地」、CS東京で「JC@TV青年会議」他をプロデュースした。終生、テレビを愛し、テレビにとことんこだわる人生であった〉

テレビジャーナリズムに全てを懸けた。特に印象に残っているのは、「ぶっちぎりトーク」「JCトーク」「ジャーナリズム最前線」だ。私も、何度も呼ばれて出た。かなり激しいトークをやる。それに、こんな危ないテーマをやっていいのか、と思われるものも恐れずにやる。天皇制、憲法、核武装、オウム、右翼…といったテーマだった。4、5人で、じっくりと討論する。相手の話をキチンと聞いた上で、討論する。激しいし、時には喧嘩にもなるが、でも、なんかアットホームな感じがした。司会のばばさんの人徳なのだろう。

三上寛さんと
三上寛さんと

1986年から20年ほど、ばばさんはひた走った。テレビ局の危機で、トーク番組の打ち切りといわれた時もあった。プロデューサーとして、ばばさんは奔走した。ダメならば自分が番組を買うと言って、資金集めをした。そのために、個人としても莫大な借金を背負ったという。責任感の強い人なのだ。1人だけ逃げられない性分なのだ。常に困難な道、苦難の道ばかりを選択する。

そんなに金で苦労してまで、テレビ番組にしがみつくことはないだろう。と周りは言う。でも、ばばさんは頑固にやり続けた。「言論の自由」のために、自由な言論、討論を根付かせるために、全力を尽くした。

「ばばさんを送る会」で、奥さんは、「ばばは、決して他人の足を引っ張らなかった」と言った。そんな優しくも、強い人だった。しかし、周りの人は大変だったろう。金の苦労をしてまで、テレビ番組になぜこだわるのだ、と思っただろう。奥さんは言っていた。「夜中、寝てる時、何度、首を絞めてやろうと思ったかしれない」…と。

大変だったんだ。奥さんでなければ分からない。そして、ばばさんは借金を残して逝った。2010年1月1日、長年の無理がたたり、心臓停止で病院に運ばれる。治療生活に入る。そして。

〈2010(平成22)年4月9日、何度か襲った危篤状態を強靱な生命力でその都度乗り越えたものの、ついに力尽き、午後6時29分、肝不全により永眠〉

④忘れられない、「天皇制論争」

須藤甚一郎さんと
須藤甚一郎さんと

そのあとに、このパンフでは家族構成を、こう紹介している。

〈離婚歴二回、結婚歴三回、一男二女の父。孫娘一人。次女の堤未果は新進のジャーナリスト。その夫、川田龍平は参議院議員。長男の大介は米国在住の画家〉

そうか。3回も結婚したのか。こうしたことを、はっきりと公開してるのも清々しい。でも1回したら、「結婚はもうコリゴリだ」と思わないのだろうか。「次こそは大丈夫」と思うのか。あるいは、本人は1人でいようと思っても、あの〈眼〉に女性たちが引き寄せられるのか。そんなことも聞いてみたかった。ばばさんとは、そんな軟派な話は一度もしたことがなかった。これは残念だった。

ばばさんの番組では「ぶっちぎりトーク」と「ジャーナリズム最前線」が一番印象に残っている。特に、皇太子さまのご成婚の日だ。この日に何と、「天皇制を考える」討論会をやった。私も出たが、「天皇制はいらない」という矢崎泰久氏も出た。そして、天皇制是か非か、という熱いバトルが闘わされた。視聴者からリアルタイムで感想、反論が来る。「ご成婚のお目でたい日に、こんな議論をするなんて、こいつらは不敬だ!」というのがあった。私も一緒になって「不敬」にされてしまった。

突然、ご婦人に抱きつかれました
突然、ご婦人に抱きつかれました
 

実は、この時の話が、ばばさんの本に出ていた。『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版)だ。2001年12月に発売された本だ。こう書いている。

〈皇太子と雅子さんの結婚式の当日、天皇制賛成の民族派右翼の論客鈴木邦男と天皇制反対のジャーナリスト矢崎泰久の討論「今、日本の皇室を考える」を放送した。編集部からは時期をずらしてほしいと求められたが、次の天皇が結婚するこの時期にこそ、新しい皇室の在り方を国民的な視野からオープンで率直に語りあうべきだと説明して実現した。
 天皇制の問題はメディアで議論するのは長らくタブーだった。それに風穴を開けたのは、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』だった。『朝まで生テレビ』では、天皇制を始め、差別、宗教、自衛隊、原発など、これまでテレビでタブーと言われていたり、賛成反対が激しく対立してきた問題を積極的に俎上に乗せた。テレビメディアのオープンな論議の中でタブーをなくそうとした『朝まで生テレビ』の功績は大きい。この番組が生まれて以来、各局が企画するテーマにかなりの自由が生まれたことは明らかだからだ〉
あらっ、中山千夏さんでした
あらっ、中山千夏さんでした

「朝生」が突破口を開いた。それで、「タブーなき言論」を目指す討議番組が全国で生まれた。大阪では猪瀬直樹さんが司会する番組があった。静岡では高野孟さんと蓮舫さんが司会する番組があった。九州でもあったようだ。

皆、熱い番組だったし、いろんな工夫をして放送していた。私も、いろいろな所に出た。

しかし、その後、テレビ局の経営も苦しくなったのだろう。全国の〈トーク番組〉が消えた。老舗の「朝生」だけが残った。いや、ばばさんが朝日ニュースターでやってた番組も、苦しいながら続いた。ばばさん自身も、金策に駆け回り、自ら、借金を背負って番組を続けた。そんな中で私らも呼んでくれたのだ。

⑤「討論の場」で人間は進化する!

竹本直一さん、奥さまと(6/15)
竹本直一さん、奥さまと(6/15)

皇太子さまのご成婚の日(1993年6月9日)に放送された「今、日本の皇室を考える」だ。普段は、5人とか6人が登壇してトークするのだが、この日は矢崎さんと私の2人だけだ。2人だけで徹底的に論じてもらおう。ということだ。こんな企画はちょっとない。私についても、こう書いている。

〈鈴木は民族派の運動家だが、相手の話に十分耳を傾ける冷静さを持っている。みずからの思想を強引に相手に押しつけようとはしない。しかも情緒的ではなく論理的に語る。戦後民主主義派を自認するジャーナリストの矢崎と丁々発止の論争になった。
 ある時期までのテレビ番組は右も左も殺(そ)ぎ落とす出演者人選をした。中庸で常識的な出演者による討論は、トラブルにはならないが、つまらないだけでなく問題の核心も見えてこない。その結果、焦点がぼけ問題解決の手掛かりがつかめない。そのうえメディアからははじき出された右や左の運動家たちは、発信する場を失って運動をより先鋭化させることになる〉

これは重大なことだ。私も、この観点を、ばばさんから教わったのかもしれない。ばばさんは、実に頻繁にチャンスを与えてくれた。NHKの元会長やJCの役員をはじめ実に多くの人々と知り合い、話し合った。

その中で、〈トレーニング〉を積ませてくれたんだろう。今となってはそう思う。凄い人だったと思う。これからも、もっともっと議論する〈場〉を作ってほしかった。

千葉真一さんと
千葉真一さんと

そうしたらテロもゲリラもなくせる。「言論妨害」もなくせる。はばさんは、この文章のあと、結論的にこう書いている。私にとっては、「言論の自由」のための、ばばさんの「遺言」にも聞こえる。

〈私は右も左もどんどんメディアに出して、それぞれが持つ違う価値観や思想を徹底討論させ、その中で互いに学習し合えばいいと考えている。論争を通じて人間は進化して行くからである。
 鈴木の場合も民族派の仲間だけで活動したりつき合ったりするのではなく、左の思想家や運動家たちとも接し、彼らと論争を深めるようになってから、思想的にも人間的にも大きくなったと思う。
 もともと私は人間にレッテルを貼ることが好きではない。だから思想や価値観が違ってもどんな人とでも話し合うし、教えられるところがあれば、それを受け入れる。自分の考え方が間違っていたと思ったら、それを改めることに抵抗感はない。それを私は「進化」だと考えるからだ。メディアは、人々がいい意味で進化していく「場」の提供者でもなければならないと思う〉

本当にその通りだ。そこに尽きていると思う。私が少しでも「進化」できたのは、ばばさんのおかげだ。

排外的な主張が増え、「言論の不自由」が憂慮されている今こそ、この言葉は強烈なものとして迫ってくる。ばばさんは本当のジャーナリストだった。そして、勇気のある人だった。その何十分の一でもいい、勇気を持って生きて行きたいと思う。「ばばこういち」という生き方に感動し、学ぼうとする全ての人たちも、この勇気を持ってほしいと思う。

【写真説明】
ばばこういちさん(堤大介画)

①6月4日(金)、「ばばこういちさんを送る会」に出席しました。午後6時。グランドプリンスホテル赤坂のロイヤルホールです。その時、配られた「ばばこういち 77年の軌跡」の表紙です。ばばさんの長男・堤大介さんが描いてます。特徴のある眼が光ってます。「眼の人」だったと思います。

右が司会のばばさんです

②この小冊子をめくっていたら、「放送ジャーナリストとしての活動は終生続いた」というページがあって、そこに、「ジャーナリズム最前線」の写真が出てました。右が司会のばばさんですね。その隣りが小沢遼子さんでしょう。そして、私のようです。左から2人目は千代丸健二さんですね。

ばばこういち『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版)

③ばばさんの『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版・1800円)です。この中で、皇太子さまのご成婚当日の「天皇制論議」の話が紹介されております。2001年12月発行です。
 今、奥付を見て、ビックリしました。著者紹介の下に何と、「現住所」が出ています。「神奈川県鎌倉市…」と。それに電話、FAX、メールも。こんな人はいませんよ。勇気のある人です。
 独身で、もうどうなってもいいと、ヤケになって住所を書いてる人はいます。でも、ばばさんのように愛する奥さまがいて、お子さまがいて、それで住所、電話を公開してるのは、ばばさんだけです。日本でこの人だけです。世界でもそうでしょう。でも、ご家族は大変だったでしょう。抗議、嫌がらせの電話も来たでしょうし…。

堤未果さん、川田龍平さんと(6/4)

④今、売れっ子のライター、堤未果さんです。「岩波はこの人が支えている」と誰かが言ってました。私も何冊も読んでます。実は、この人は、ばばこういちさんの娘さんだったんです。最近まで知りませんでした。すみません。
 それに旦那さんは、参議院議員の川田龍平さんです。久しぶりに川田さんにお会いしました。奥さんに私のことを紹介してました。「この人は鈴木さんといって、一水会の顧問です。前に、ジャナ専で講演した時に、初めて会ったんですよ」と。よく覚えてますね。ありがとうございました。未果さんにもお父さんのことをいろいろ聞いてみたいですね。

鳥越俊太郎さん、増山麗奈さんと

⑤鳥越俊太郎さん、そして、増山麗奈さん(画家)と娘さんです。鳥越さんに、「お子さんは大きいんですか」と聞いたら、「もう孫がいますよ」と言って、携帯の待ち受けの画面を見せてくれました。「これが、かわいいんだなー!」とニコニコ。「これじゃ、ただのフツーのおじいさんだよな」と言ってました。いえいえ、素敵です。私も待ち受けは孫の写真にします。

三上寛さんと

⑥歌手の三上寛さんと。「青森から出て来た私に初めてレコードをつくってくれたのが、ばばこういちさんなんです」と言ってました。そうだったんですか。「それに、初めて私のファンクラブ会長をやってくれたのが阿部勉さんなんです」。阿部氏は「楯の会」1期生で、一水会副会長でした。若くして亡くなりました。この日、三上さんは、最後に、たっぷりと歌ってくれました。

須藤甚一郎さんと

⑦須藤甚一郎さんと久しぶりに会いました。ワイドショーのレポーターを長くやってました。今は、目黒区議会議員だそうです。驚きました。
「鈴木さんは太らないですね」
「貧乏で食べてないからです」
「そんなことないでしょう、トレーニングしてるんですか」
「時々、柔道に」
…という話をしました。昔、三船久蔵十段の演武を見たといってました。「だったら、柔道をやったらいいのに」と勧めました。

突然、ご婦人に抱きつかれました

⑧そしたら、いきなり、ご婦人が突進してきました。ヤバ!テロか? 体をさばいて、一本背負いで投げようかと思いましたが、何故か、しっかり抱きしめていました。危機管理がなってない。

あらっ、中山千夏さんでした""

⑨よく見たら、中山千夏さんでした。この日、松島とも子さんと2人で司会をしてました。千夏さんにはいつもズバズバと言われてます。口撃されてます。「鈴木さんを見ると、いじめたくなるの…」と。

竹本直一さん、奥さまと(6/15)

⑩6月15日(火)「衆議院議員・竹本直一君を励ます会」。グランドプリンスホテル赤坂ロイヤルホールだ。あれっ、6月4日、「ばばこういちさんを送る会」もこのホテルだったな。それも同じ部屋だ。他にも最近、ここに来たな。
 竹本さん、奥さんと記念撮影しました。

千葉真一さんと

⑪今は、ハリウッドで活躍している千葉真一さんと。映画「武士道」をつくる、と言ってました。サムライです。日本も国家が映画を支援しなければダメだ、と言ってました。

神取忍さんと

⑫神取忍さんも来てました。最強の国会議員です。ヤワラちゃんが民主党から出ますが、「その前に私と闘え!」と、スポーツ新聞で吠えてました。ぜひ、やってほしいですね。

「新左翼って何?」(6/15)

⑬「竹本さんを励ます会」の後、「絶滅新左翼を励ます会」に出ました。ネーキッドロフトです。正しくは、「新左翼って何?」でした。
 左から、平野悠さん(ロフト席亭)、小西誠さん(もと反戦自衛官)。塩見孝也さん(最近、葬儀をしたが、まだ生きている)。深笛義也さん(元過激派、今ライター)。よねざわいずみさん(共産趣味者)。なかなか楽しい会でした。小西さんに、自衛官の時の話を詳しく聞きました。

iPadを買いました

⑭iPadを買いました。本がありすぎて読みきれないよ。どうしよう。

中野ジロー君を激励する会(6/13)

⑮6月13日(日)、午後1時、阿佐ヶ谷ロフト。「中野ジロー君を激励する会」。凄い経歴の人だったんですね。
元ヤクザ、元シャブ中。そして刑務所に入ったり、出たり、又、入ったり。では今は作家です。
左から司会の針谷大輔氏。中野ジロー氏。月乃光司氏。私。宮崎美乃利さん(元演歌歌手)。RIKIYA氏。トークも楽しかったですが、その後、ジロー氏と奥さんが、「ファンサービス」で踊ってくれました。凄いですね。

横浜の映画館で撃退されました(6/12)

⑯6月12日(土)、横浜の映画館に「ザ・コーヴ」を上映するな!という人々が押しかけました。私は上映させた方がいいと思うので、1人で、出かけて行き、「ここで公開討論しよう!」と訴えましたが、全く相手にされませんでした。「ゴミはゴミ箱へ!」「鈴木邦男は北朝鮮に帰れ!」と言われました。6月16日(水)のTBS「ニュース23」でも、この様子は放映されたそうです。

【だいありー】
神取忍さんと
神取忍さんと
  1. 6月14日(月)、午後から早稲田大学に行く。「60年安保、50年を迎えて。報道写真展覧会」(国際教養学部主催)を見に行く。
    当時の写真、新聞、そして映像も展示されていた。全学連委員長の唐牛健太郎の映像もあった。晩年は、何度もお会いし、お世話になった。
    ただ、全学連当時の映像は貴重だ。それに、この頃の学生は皆、目の輝きが違う。これが日本人なんだ。今の日本に日本人はいない。思った。
     面白いエピソードも紹介されていた。「アンポ反対!岸を倒せ!」という声が全国に充満し、子供たちも「アンポ反対」ごっこをやって遊んだ。何と岸首相の孫までがやって、おじいちゃんに叱られたそうだ。その孫が安倍元首相なんですよ。思わず笑ってしまった。
    「これはいい。ぜひ見なさい」と早大政経学部の同級生だった布川玲子さん(現・山梨学院大学教授)からメールが来たからだ。本当に感動的だった。6月8日から17日まで。大隈記念タワー10階で。唐牛健太郎さんの追悼集も展示されていた。私も書いている。
     その後、スクールバスで高田馬場へ。170円だ。私らが学生の時は10円だったと思うが。午後4時、グリーンピースジャパン事務局長の星川淳さんと会う。捕鯨と鯨肉について、いろいろと教えてもらう。いろんな人を集めて、この問題ではトークをすべきだろうと思う。
     そうか。本当は、今日は北朝鮮に行ってたはずだ。6月11日(金)〜15日(火)に北朝鮮行きが決まっていたが、直前になり入国拒否された。残念だ。
「新左翼って何?」(6/15)
「新左翼って何?」(6/15)
  1. 6月15日(水)図書館に行く。午後5時45分より、水野和夫氏(三菱UFJ証券 チーフエコノミスト)の講演「現在の日本経済を斬る」。
    続いて6時30分より「衆議院議員・竹本直一君を励ます会」。グランドプリンスホテル赤坂ロイヤルホール。満員だった。竹本さんに久しぶりに会った。とても優秀な人だ。
    加藤紘一さんや神取忍さん、それに俳優の千葉真一さんなどが来ていた。国会議員も、大勢来ていた。神取さんは女子柔道王で、その後、プロレスラーになり、今は議員だ。「私も講道館に通ってますよ」と柔道の話になった。でも、神取さんにはかなわないな。千葉さんは、今度、映画「武士道」を作るという。映画は大事な文化であり産業なのに、国が支援しないのは日本だけだ。と訴えていた。
     終わって、新宿のネーキッドロフトに行く。「復活!平野悠の好奇心。何でも聞いてやろう。新左翼って何?」というイベントだ。塩見孝也さんと小西誠さん(元反戦自衛官・出版社代表)。深笛義也さん(元活動家・ライター)。平野悠さん(ロフト席亭)。よねざわいずみさん(共産趣味者)が話していた。
     私も壇上に上げられて話す。小西さんに反戦自衛官の登場時の話を詳しく聞いた。塩見さんには会った瞬間に合掌してしまった。だって、葬式をやって、もう亡くなった人なんだし。終わってからも、小西さんたちに話を聞いた。12時過ぎになったので、あわてて帰った。
iPadを買いました
iPadを買いました
  1. 6月16日(水)国立オリンピック記念青少年総合センターへ行く。6月9日に中野ZEROで会った坂野正人氏から誘いがあったのだ。オバリーさんの講演があるからと。講演の前にイルカの映像を2時間流し、坂野さんの話などもある。
     又、映画「ザ・コーヴ」の予告編的なものを少し流す。他に、イルカの生態、イルカと人間の交流、イルカと触れ合うことで鬱病などの治療をしてる人もいる。といった映像が流れる。勉強になると思うから、ビデオの始まる4時から行く。
     この日の集会だが、「リチャード・オバリー来日記念講演会・イルカ—その微笑みの陰で--」というテーマだった。
     オリンピックセンターの前に行くと、入口に「上映阻止」の人々がいて演説していた。私は呼ばれたのだから、すぐ入れた。「阻止派」の人々も暑いのにご苦労さんだ。「頑張って下さい」と手を振ったら、「鈴木邦男は帰れ!」と言われた。外、入口、内部と物々しい警戒だ。制服、私服合わせて40名の警察官が出てるという。
     4時から6時までイルカの映像。6時半から坂野正人さんの映像とお話。そして7時から9時まで、リチャード・オバリーさんの講演と質疑応答。とてもいい話だった。終わってオバリーさんと、いろいろと話をした。いろんな質問もした。イルカの問題でいろいろ疑問に思ってることがあったが、かなり理解できた。
     そして、急いで高田馬場へ。実は今日は、一水会フォーラムなのだ。講演には出れなかったが、二次会にだけ参加した。講師は秋山祐徳太子さん(芸術家・MXテレビ西部邁ゼミナールレギュラー)。演題は「元都知事候補が語る勇者たちの心意気」。
     「遅れてすみません」と謝ったら、「イルカの問題で動いてるんだって?」。そうなんです。済みません、映画「ザ・コーヴ」の問題では、随分と取材されてるし、トークにも出ている。これからも、3回以上、トークバトルがある。だから勉強しておかないと。それに、オバリーさんは、もうすぐ帰るというし、この日しか会える日がなかったんだ。
     12時過ぎに家に帰ったら、「“ニュース23”で見たよ!」というFAXがいくつか来ていた。6月9日の中野ZEROと6月12日の「横浜の闘い」が放送されたようだ。残念、見れなかった。
     実はこの日の夜、もう一つ、パーティがあって、少しでも出ようと思っていた。冤罪・袴田事件を扱った映画「BOX・袴田事件 命とは」(高橋伴明監督)だ。その完成パーティの予定だったが、何故か中止になった。
中野ジロー君を激励する会(6/13)
中野ジロー君を激励する会(6/13)
  1. 6月15日(木)昼、打ち合わせ。午後、河合塾コスモに。フェローや生徒に、「見ましたよ。昨日」と言われた。「暴れて、警察官に止められてましたね」と。別に暴れてないよ。阻止派の人々に「映画館に妨害しないで、私と討論しよう!」と訴えただけだ。でも、全く相手にされず、撃退された。「ゴミはゴミ箱へ!」「鈴木邦男は北朝鮮へ帰れ!」と言われたんだ。そうだ、6月11日から15日までは、北朝鮮に行ってるはずだったのに。行きたくても行けないよ。
     「ニュース23」では、私が警察官に阻止されてるとこや、ZEROホールのトークが紹介されてたそうだ。早かったので学校で、勉強しようと思って座ったら、机の上に、「ゴミはゴミ箱へ」と書かれていた。ゲッ!オラのことだよ。失礼な!と思ったら、「別に鈴木さんのことじゃないですよ。本当のゴミのことですよ」「だから本当のゴミは私なんだよ」
     3時から現代文要約。
     5時から、基礎教養ゼミ。今週は牧野先生の選んだ本を読む。宮川克己の『古代王権論=三〜七世紀の倭国と日本』。それと、『あらすじとイラストでわかる。古事記。日本書紀』(イースト・プレス)。なかなか面白いし、勉強になる本だった。
横浜の映画館で撃退されました(6/12)
横浜の映画館で撃退されました(6/12)
  1. 6月18日(金)夕方まで、家にいて原稿を書く。夕方、打ち合わせ。
  2. 6月19日(土)昼、取材。午後7時、『空想 皇居美術館』刊行記念シンポジウム。この革命的なアート本をめぐって大討論会が行われました。渋谷区千駄ヶ谷のビリオティックで。前売券を買った人で満員でした。サッカーの日なのに、よく集まりました。
     パネラーは、辛酸なめ子さん(漫画家)、鈴木芳雄さん(元「BRUTUS」編集長)、倉方俊輔さん(建築史家)、彦坂尚嘉さん(現代美術家)、新堀学さん(建築家)、そして私です。あくまでも、建築・アートの話です。でも、天皇制、政治の話にもなりますし、ハラハラ、ドキドキするシンポジウムになりました。
     終わって、原宿駅の近くで打ち上げ。
  3. 6月20日(日)午後2時より、早稲田奉仕園。日本キリスト教会館6Fで。座談会「RED現象の示すもの」があり、聞きに行きました。「連合赤軍事件の全体像を残す会」が主催。連赤事件を基にした「実録 連合赤軍事件」(若松孝二監督)、「光の雨」(高橋伴明監督)、そして漫画「RED」(山本直樹)など、連赤事件が取り上げられ、あの事件は何だったのかが広く考えられている。いわば「RED現象」だ。そのことを皆で討論した。植垣康博さん、山本直樹さんも来ていた。
【お知らせ】
  1. 6月21日(月)夜8時から、「ニコニコ動画」に出ます。生放送です。映画「ザ・コーヴ」上映反対運動をめぐる問題で、ひろゆきさんらと討論します。
  2. 6月25日(金)「週刊読書人」発売。上野昂志さんと私の対談「全集を読む!」が載る予定です。
  3. 7月3日(土)7時、ロフトプラスワン映画「ザ・コーヴ」の上映とシンポジウムをやるそうです。私も出ます。きっと荒れるでしょう。
  4. 7月4日(日)1時、阿佐ヶ谷ロフト北芝健さんのトークライブ。石原伸司さんと私が出ます。
  5. 7月18日(日)午後1時半。「和歌山カレー事件。ただいま再審請求中!」。大阪、御堂会館A展示室(南館地下)。難波別院(南御堂)です。
     獄中(大阪拘置所)から、林眞須美さんは、無実を訴え続けています。昨年の7月27日、再審請求を提出し、今春、鑑定書の杜撰さを暴くべく再鑑定の請求も 行っています。昨年提出された再審請求書の論点は何か? いま何をしているのか? 今後の予定を、弁護団から報告してもらいます。
    報告:和歌山カレー事件再審弁護団
    挨拶:鈴木邦男(林眞須美さんを支援する会代表)
    特別ゲスト(講演):森達也さん(映画監督)
  6. 7月21日(水)午後7時、ネイキッドロフトオウム問題の大討論会をやります。オウム真理教の元幹部達が来ます。私も出ます。
  7. 7月25日(日)2時。名古屋市大須の七ツ寺共同スタジオ。三井環さん、植垣康博さん、私のトークセッション「この国の自立と正義」が行われます。
  8. 7月31日(土)シンポジウムに出ます。
  9. 8月23日(月)「見沢知廉生誕企画」。「獄中12年。駆け抜けた46年」をやります。場所はBuader House(京王井の頭線 東松原駅より徒歩1分。料金2500円)。
     第1部 映画「見沢知廉 たった一人の革命」プレビュー上映。トークショー:大浦信行、高木尋士、あべあゆみ、鈴木邦男。さらに、新発見の資料展示。私が見沢氏にあてた手紙なども展示するそうです。恥ずかしいです。
  10. 11月6日(土)新潟県新発田市で、「三島由紀夫と蕗谷虹児=うたと講演のつどい」が行われます。蕗谷は新発田市出身の偉大な叙情画家で「花嫁人形」の作詞家でもあります。その2人について私が講演します。そして歌もあります。