こういう生き方もあるんだ。と感動した。実に爽やかな人だった。清々しい人だった。奥さんが言っていた。「他人の足を引っ張ったことは一度もなかった。正々堂々と生きてきた」と。なかなか、出来ないことだ。それも、ジャーナリストなのだ。ばばこういちさんだ。
今年4月9日、亡くなった。77才だった。6月4日(金)、午後6時から「ばばこういちさんを送る会」が行われた。グランドプリンスホテル赤坂・別館5階ロイヤルホールだった。1番大きな部屋だが、満員だった。皆に愛されていた。皆に惜しまれて亡くなった。
ばばさんは、ジャーナリスト一本で生き抜いた人だ。テレビを中心に、取材し、報道し、主張した。勿論、人を批判することもある。糾弾することもある。しかし、堂々とやった。誹謗中傷はしなかった。他人の足を引っ張ることもなかった。
奥さん(馬場美耶子さん)はそう言う。自分のことを考えてみたらいい。こいつは許せない。何でこんな奴がいい目をしている。それに比べ俺は…と、他人を妬み、僻むことは多いはずだ。口にだって出す。足を引っ張る。皆、多かれ少なかれ経験あるだろう。私なんて、僻みっぽいし、コンプレックスの塊だから、いつもそうだ。嫌な人間だ。
でも、ばばさんはそれがない。これは奇跡的だ。取材の時も、テレビの司会の時も、実に爽やかだ。出席者に嫌な思いをさせない。怒鳴らないし、嫌な質問をして相手がムキになって反論することもなかった。起こらせて喋らせることもなかった。それでよく司会が出来たと思うが、そこは、ばばさんの人柄なのか。不思議だ。皆が気持ちよく喋る雰囲気をつくる。それがうまいのだ。
当日、配られた「ばばこういち 77年の軌跡」という小冊子がある。表紙は、ばばさんの写真だ。と思ったら、堤大介さん(長男)が描いた絵だった。眼がいい。眼が光っている。眼力(めぢから)がある。どんな人々をも魅了するような深い眼だ。皆を愛する温かい眼だ。
特に、若い時の眼は、そうだ。大杉栄は「眼の男」と言われたが、ばばさんもそうだ。こんな眼で見つめられたら誰だって、ドキドキしてしまう。引きつけられる。嘘も言えない。
元々はアナウンサーとして出発した。洗練された都会人としての歯切れのいい語りで定評があった。でも、東北での生活が長かったのだ。これは知らなかった。生まれたのは東京だが、昭和20年5月、疎開により山形県立山形中学校に1年で編入している。12才の時だ。それから東北暮らしが始まる。
昭和23年、山形県立山形東高校に入学。昭和26年、東北大学経済学部入学。仙台に住んでいたんだ。仙台の話も聞けばよかった。知らなかった。じゃ、ばばさんも「同じ東北人」じゃないのか、と思った。
大学を卒業して、すぐに大和証券に勤めるが、翌年退社し、文化放送にアナウンサーとして入社。生まれは東京だが、中学、高校、大学と東北だ。東北弁の中で、どっぷり浸かって生活していた。それを直して、アナウンサーになるのは大変だったようだ。そのために必死の努力をした。「しゃべり方」の学校に通った、という人もいる。いや、「東北訛りを直すためにアナウンサーを受けたのだ」という人もいる。説が分かれる。
しかし、大変な努力だ。努力の人だ。目的に向かって、ひたむきに努力する。東北人のいい所だ。東北人のひたむきさで、東北弁を直したのだ。
文化放送に入ったばばさんは、その後、フジテレビ、東京12チャンネルに移り、そして。
〈1966(昭和41)年3月。大量首切り争議にあたり、正義を主張して退職。フジテレビからの復帰の誘いを断って、フリージャーナリストとなる〉
なかなか出来ないことだ。人生の重要な岐路に差し掛かった時、「楽な道」ではなく、あえて「厳しい道」を選ぶ。凄いと思う。首切りがあって、自分がそこに入っていなければ、「ああ助かった」と思う。さらに、「俺はそれだけここでやる使命があるんだ」「自分の力を会社は認めてくれたんだ」と安堵し、満足する。しかし、ばばさんは違う。主張を貫いて、自分から辞めたのだ。さらに、フジテレビからの誘いも蹴って、フリーになる。多分、家族の反対もあっただろう。でも曲げない。
そして、フリーとして、努力し、自らの出番をつくっていく。その立場を爽やかと思い、立派と評価したところから次々と声がかかり、仕事が拡がる。
〈1968(昭和43)年4月。テレビ朝日「長谷川肇モーニングショー」の副司会者として、テレビ界デビュー、以後、日本テレビ「あなたのワイドショー」レポーター、テレビ朝日「アフタヌーンショー」『納得いかないコーナー』担当、毎日放送「ドキュメントトーク」キャスター、北海道放送「朝まで生討論」キャスター他、数多くの番組に出演、テレビ・ジャーナリストとして活躍する〉
ばばさんは、引っ張りだこだった。鋭い中にも愛情のある語り口。人柄、人間のネットワークetc。それらが評価されたのだ。北海道放送の「朝まで生討論」というのは、噂には聞いてたが、本当にあったんだ。テレ朝の「朝まで生テレビ」の始まる前だ。それに、大阪、名古屋、さらに九州でも、いろんな討論番組があった。火付け役は、ばばさんだったんだろう。
又、ばばさんは、市民運動や、選挙にも積極的に関わる。1977年(昭和52年)3月の革自連(革新自由連合)の発足に参加。この後、10年にわたり市民運動を積極的に行う。革自連候補として自らも出馬するが、横山ノックのみ当選した。
実は、革自連の初期の段階では、竹中労が中心になり、五木寛之や野坂昭如や、いろんな人に呼びかけて、広範囲な政党をつくろうとした。その時、私も声をかけられた。多分、その頃、ばばさんと初めて会ったと思う。(しかし、竹中さんは、すぐに手を引き、私もつながりがなくなった)。1980年(昭和55)年にはばばさんは、革自連から中山千夏を参議院へ送り込むことに尽力する。(革自連は1986年に解散)。
市民運動10年を経て、再び、テレビジャーナリズムの世界で脚光を浴び、意欲的に仕事をする。
〈1986(昭和61)年4月。この年3月にCS朝日ニュースターが開局。同局で、「ぶっちぎりトーク」「マルチメディア・スペシャル」「JCトーク」「ジャーナリズム最前線」「よみがえれニッポン」などの番組を2009年6月まで連続してプロデューサー兼キャスターとして担当。その間、テレビ東京で「私が作った番組—マイテレビジョン」「キャスター」「ドキュメント・シリーズ・ザ・21世紀」。朝日にニュースターでは「蘇れ大地」、CS東京で「JC@TV青年会議」他をプロデュースした。終生、テレビを愛し、テレビにとことんこだわる人生であった〉
テレビジャーナリズムに全てを懸けた。特に印象に残っているのは、「ぶっちぎりトーク」「JCトーク」「ジャーナリズム最前線」だ。私も、何度も呼ばれて出た。かなり激しいトークをやる。それに、こんな危ないテーマをやっていいのか、と思われるものも恐れずにやる。天皇制、憲法、核武装、オウム、右翼…といったテーマだった。4、5人で、じっくりと討論する。相手の話をキチンと聞いた上で、討論する。激しいし、時には喧嘩にもなるが、でも、なんかアットホームな感じがした。司会のばばさんの人徳なのだろう。
1986年から20年ほど、ばばさんはひた走った。テレビ局の危機で、トーク番組の打ち切りといわれた時もあった。プロデューサーとして、ばばさんは奔走した。ダメならば自分が番組を買うと言って、資金集めをした。そのために、個人としても莫大な借金を背負ったという。責任感の強い人なのだ。1人だけ逃げられない性分なのだ。常に困難な道、苦難の道ばかりを選択する。
そんなに金で苦労してまで、テレビ番組にしがみつくことはないだろう。と周りは言う。でも、ばばさんは頑固にやり続けた。「言論の自由」のために、自由な言論、討論を根付かせるために、全力を尽くした。
「ばばさんを送る会」で、奥さんは、「ばばは、決して他人の足を引っ張らなかった」と言った。そんな優しくも、強い人だった。しかし、周りの人は大変だったろう。金の苦労をしてまで、テレビ番組になぜこだわるのだ、と思っただろう。奥さんは言っていた。「夜中、寝てる時、何度、首を絞めてやろうと思ったかしれない」…と。
大変だったんだ。奥さんでなければ分からない。そして、ばばさんは借金を残して逝った。2010年1月1日、長年の無理がたたり、心臓停止で病院に運ばれる。治療生活に入る。そして。
〈2010(平成22)年4月9日、何度か襲った危篤状態を強靱な生命力でその都度乗り越えたものの、ついに力尽き、午後6時29分、肝不全により永眠〉
そのあとに、このパンフでは家族構成を、こう紹介している。
〈離婚歴二回、結婚歴三回、一男二女の父。孫娘一人。次女の堤未果は新進のジャーナリスト。その夫、川田龍平は参議院議員。長男の大介は米国在住の画家〉
そうか。3回も結婚したのか。こうしたことを、はっきりと公開してるのも清々しい。でも1回したら、「結婚はもうコリゴリだ」と思わないのだろうか。「次こそは大丈夫」と思うのか。あるいは、本人は1人でいようと思っても、あの〈眼〉に女性たちが引き寄せられるのか。そんなことも聞いてみたかった。ばばさんとは、そんな軟派な話は一度もしたことがなかった。これは残念だった。
ばばさんの番組では「ぶっちぎりトーク」と「ジャーナリズム最前線」が一番印象に残っている。特に、皇太子さまのご成婚の日だ。この日に何と、「天皇制を考える」討論会をやった。私も出たが、「天皇制はいらない」という矢崎泰久氏も出た。そして、天皇制是か非か、という熱いバトルが闘わされた。視聴者からリアルタイムで感想、反論が来る。「ご成婚のお目でたい日に、こんな議論をするなんて、こいつらは不敬だ!」というのがあった。私も一緒になって「不敬」にされてしまった。
実は、この時の話が、ばばさんの本に出ていた。『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版)だ。2001年12月に発売された本だ。こう書いている。
〈皇太子と雅子さんの結婚式の当日、天皇制賛成の民族派右翼の論客鈴木邦男と天皇制反対のジャーナリスト矢崎泰久の討論「今、日本の皇室を考える」を放送した。編集部からは時期をずらしてほしいと求められたが、次の天皇が結婚するこの時期にこそ、新しい皇室の在り方を国民的な視野からオープンで率直に語りあうべきだと説明して実現した。
天皇制の問題はメディアで議論するのは長らくタブーだった。それに風穴を開けたのは、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』だった。『朝まで生テレビ』では、天皇制を始め、差別、宗教、自衛隊、原発など、これまでテレビでタブーと言われていたり、賛成反対が激しく対立してきた問題を積極的に俎上に乗せた。テレビメディアのオープンな論議の中でタブーをなくそうとした『朝まで生テレビ』の功績は大きい。この番組が生まれて以来、各局が企画するテーマにかなりの自由が生まれたことは明らかだからだ〉
「朝生」が突破口を開いた。それで、「タブーなき言論」を目指す討議番組が全国で生まれた。大阪では猪瀬直樹さんが司会する番組があった。静岡では高野孟さんと蓮舫さんが司会する番組があった。九州でもあったようだ。
皆、熱い番組だったし、いろんな工夫をして放送していた。私も、いろいろな所に出た。
しかし、その後、テレビ局の経営も苦しくなったのだろう。全国の〈トーク番組〉が消えた。老舗の「朝生」だけが残った。いや、ばばさんが朝日ニュースターでやってた番組も、苦しいながら続いた。ばばさん自身も、金策に駆け回り、自ら、借金を背負って番組を続けた。そんな中で私らも呼んでくれたのだ。
皇太子さまのご成婚の日(1993年6月9日)に放送された「今、日本の皇室を考える」だ。普段は、5人とか6人が登壇してトークするのだが、この日は矢崎さんと私の2人だけだ。2人だけで徹底的に論じてもらおう。ということだ。こんな企画はちょっとない。私についても、こう書いている。
〈鈴木は民族派の運動家だが、相手の話に十分耳を傾ける冷静さを持っている。みずからの思想を強引に相手に押しつけようとはしない。しかも情緒的ではなく論理的に語る。戦後民主主義派を自認するジャーナリストの矢崎と丁々発止の論争になった。
ある時期までのテレビ番組は右も左も殺(そ)ぎ落とす出演者人選をした。中庸で常識的な出演者による討論は、トラブルにはならないが、つまらないだけでなく問題の核心も見えてこない。その結果、焦点がぼけ問題解決の手掛かりがつかめない。そのうえメディアからははじき出された右や左の運動家たちは、発信する場を失って運動をより先鋭化させることになる〉
これは重大なことだ。私も、この観点を、ばばさんから教わったのかもしれない。ばばさんは、実に頻繁にチャンスを与えてくれた。NHKの元会長やJCの役員をはじめ実に多くの人々と知り合い、話し合った。
その中で、〈トレーニング〉を積ませてくれたんだろう。今となってはそう思う。凄い人だったと思う。これからも、もっともっと議論する〈場〉を作ってほしかった。
そうしたらテロもゲリラもなくせる。「言論妨害」もなくせる。はばさんは、この文章のあと、結論的にこう書いている。私にとっては、「言論の自由」のための、ばばさんの「遺言」にも聞こえる。
〈私は右も左もどんどんメディアに出して、それぞれが持つ違う価値観や思想を徹底討論させ、その中で互いに学習し合えばいいと考えている。論争を通じて人間は進化して行くからである。
鈴木の場合も民族派の仲間だけで活動したりつき合ったりするのではなく、左の思想家や運動家たちとも接し、彼らと論争を深めるようになってから、思想的にも人間的にも大きくなったと思う。
もともと私は人間にレッテルを貼ることが好きではない。だから思想や価値観が違ってもどんな人とでも話し合うし、教えられるところがあれば、それを受け入れる。自分の考え方が間違っていたと思ったら、それを改めることに抵抗感はない。それを私は「進化」だと考えるからだ。メディアは、人々がいい意味で進化していく「場」の提供者でもなければならないと思う〉
本当にその通りだ。そこに尽きていると思う。私が少しでも「進化」できたのは、ばばさんのおかげだ。
排外的な主張が増え、「言論の不自由」が憂慮されている今こそ、この言葉は強烈なものとして迫ってくる。ばばさんは本当のジャーナリストだった。そして、勇気のある人だった。その何十分の一でもいい、勇気を持って生きて行きたいと思う。「ばばこういち」という生き方に感動し、学ぼうとする全ての人たちも、この勇気を持ってほしいと思う。
①6月4日(金)、「ばばこういちさんを送る会」に出席しました。午後6時。グランドプリンスホテル赤坂のロイヤルホールです。その時、配られた「ばばこういち 77年の軌跡」の表紙です。ばばさんの長男・堤大介さんが描いてます。特徴のある眼が光ってます。「眼の人」だったと思います。
②この小冊子をめくっていたら、「放送ジャーナリストとしての活動は終生続いた」というページがあって、そこに、「ジャーナリズム最前線」の写真が出てました。右が司会のばばさんですね。その隣りが小沢遼子さんでしょう。そして、私のようです。左から2人目は千代丸健二さんですね。
③ばばさんの『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版・1800円)です。この中で、皇太子さまのご成婚当日の「天皇制論議」の話が紹介されております。2001年12月発行です。
今、奥付を見て、ビックリしました。著者紹介の下に何と、「現住所」が出ています。「神奈川県鎌倉市…」と。それに電話、FAX、メールも。こんな人はいませんよ。勇気のある人です。
独身で、もうどうなってもいいと、ヤケになって住所を書いてる人はいます。でも、ばばさんのように愛する奥さまがいて、お子さまがいて、それで住所、電話を公開してるのは、ばばさんだけです。日本でこの人だけです。世界でもそうでしょう。でも、ご家族は大変だったでしょう。抗議、嫌がらせの電話も来たでしょうし…。
④今、売れっ子のライター、堤未果さんです。「岩波はこの人が支えている」と誰かが言ってました。私も何冊も読んでます。実は、この人は、ばばこういちさんの娘さんだったんです。最近まで知りませんでした。すみません。
それに旦那さんは、参議院議員の川田龍平さんです。久しぶりに川田さんにお会いしました。奥さんに私のことを紹介してました。「この人は鈴木さんといって、一水会の顧問です。前に、ジャナ専で講演した時に、初めて会ったんですよ」と。よく覚えてますね。ありがとうございました。未果さんにもお父さんのことをいろいろ聞いてみたいですね。
⑤鳥越俊太郎さん、そして、増山麗奈さん(画家)と娘さんです。鳥越さんに、「お子さんは大きいんですか」と聞いたら、「もう孫がいますよ」と言って、携帯の待ち受けの画面を見せてくれました。「これが、かわいいんだなー!」とニコニコ。「これじゃ、ただのフツーのおじいさんだよな」と言ってました。いえいえ、素敵です。私も待ち受けは孫の写真にします。
⑥歌手の三上寛さんと。「青森から出て来た私に初めてレコードをつくってくれたのが、ばばこういちさんなんです」と言ってました。そうだったんですか。「それに、初めて私のファンクラブ会長をやってくれたのが阿部勉さんなんです」。阿部氏は「楯の会」1期生で、一水会副会長でした。若くして亡くなりました。この日、三上さんは、最後に、たっぷりと歌ってくれました。
⑦須藤甚一郎さんと久しぶりに会いました。ワイドショーのレポーターを長くやってました。今は、目黒区議会議員だそうです。驚きました。
「鈴木さんは太らないですね」
「貧乏で食べてないからです」
「そんなことないでしょう、トレーニングしてるんですか」
「時々、柔道に」
…という話をしました。昔、三船久蔵十段の演武を見たといってました。「だったら、柔道をやったらいいのに」と勧めました。
⑩6月15日(火)「衆議院議員・竹本直一君を励ます会」。グランドプリンスホテル赤坂ロイヤルホールだ。あれっ、6月4日、「ばばこういちさんを送る会」もこのホテルだったな。それも同じ部屋だ。他にも最近、ここに来たな。
竹本さん、奥さんと記念撮影しました。
⑬「竹本さんを励ます会」の後、「絶滅新左翼を励ます会」に出ました。ネーキッドロフトです。正しくは、「新左翼って何?」でした。
左から、平野悠さん(ロフト席亭)、小西誠さん(もと反戦自衛官)。塩見孝也さん(最近、葬儀をしたが、まだ生きている)。深笛義也さん(元過激派、今ライター)。よねざわいずみさん(共産趣味者)。なかなか楽しい会でした。小西さんに、自衛官の時の話を詳しく聞きました。
⑮6月13日(日)、午後1時、阿佐ヶ谷ロフト。「中野ジロー君を激励する会」。凄い経歴の人だったんですね。
元ヤクザ、元シャブ中。そして刑務所に入ったり、出たり、又、入ったり。では今は作家です。
左から司会の針谷大輔氏。中野ジロー氏。月乃光司氏。私。宮崎美乃利さん(元演歌歌手)。RIKIYA氏。トークも楽しかったですが、その後、ジロー氏と奥さんが、「ファンサービス」で踊ってくれました。凄いですね。
⑯6月12日(土)、横浜の映画館に「ザ・コーヴ」を上映するな!という人々が押しかけました。私は上映させた方がいいと思うので、1人で、出かけて行き、「ここで公開討論しよう!」と訴えましたが、全く相手にされませんでした。「ゴミはゴミ箱へ!」「鈴木邦男は北朝鮮に帰れ!」と言われました。6月16日(水)のTBS「ニュース23」でも、この様子は放映されたそうです。