学生時代は、「いい敵」がいた。全共闘だ。我々、右翼学生は少数派だから、いつも全共闘に論破され、殴られ、ボコボコにされていた。でも、卑劣なことはしなかった。例え、乱闘になっても、堂々と闘った。「弱い者いじめ」はしなかった。僕ら右翼学生は巨大な敵・全共闘と毎日、闘っていた。全共闘だって僕らのことを「弱い者」と思わない。「弱い者いじめ」ではない。「敵」として正当に認め、全力で潰しに来た。
もう40年も昔だ。今となっては、懐かしい思い出だ。清々しい闘いだった。だから今、会っても、「やあやあ」「懐かしいね」と会うことが出来る。40年前の良き時代の、「いい敵」とは今、話し合えるし、左右を超えて、同じ〈時代〉を闘った「戦友」のような気がする。
ただ同じ新左翼でも「内ゲバ」で殺し合いをやっていた人間たちは、いくら年月が過ぎても、再会し、話し合うことも出来ない。むしろ僕の方が、左翼の人達と広く付き合える。
40年前の、乱闘に明け暮れていた時代を考えると、今、どんな事があっても動揺しない。保守派グループに、「北朝鮮に帰れ!」と言われても、ハンドマイクで殴られても、何とも思わない。どんどんやってくれよ、と思う位だ。学生時代は、こんなもんじゃなかったぞ、と思っている。
それにしても、最近は「いい敵」がいない。こんな形で闘うなんて、自分も不幸だと思う。昔の「敵」が恋しい。再生してくれよ!と思う。全共闘は卑劣なことはしなかった、と言った。卑劣な手段を取ってまで勝とうと思わなかった。「手段」「方法」も、重要だ。それを人々は見ている。
たとえば、成田闘争だ。開港を阻止するのなら、国民に空港を利用させなければいい。そのための一番「効率のいい事」はスカイライナーを爆破することだ。成田にはそれしかアクセス手段はない。怖がって、国民はもう乗らない。成田にも行かない。
しかし、全共闘はそんな卑劣な「手段」を取らなかった。それだけは「禁じ手」だ。禁じ手を使ってまで闘争に勝利しようと思わなかった。少々過激で、荒っぽくても、でも国民に支持される「手段」を選んだのだ。
もっと前なら、60年安保の時の、ハガチー阻止闘争だ。当時のニュースを見ると、ハガチーの車はデモに完全に囲まれている。全く進めない。そのうち、学生たちは車の上に乗ったり、車を揺さぶったりする。窓ガラスも割れた。だったら、中にいるハガチーを引きずり出し、ボコボコに出来た。殺すことだって出来た。でもやらない。そこまでやったら「オワリ」だ。あれだけ「群衆心理」で狂気になっているのに、やらなかった。そんなことまでやって「勝利」したくなかったのだ。
その点、最近の保守市民運動の暴走は酷い。「反日」映画を潰す為なら、「手段」を選ばない。弱い映画館に押しかけて攻撃する。映画館の支配人の家に行って、何の関係もない年老いたお母さんを脅す。これは、「禁じ手」だ。ここまでやったら「オワリ」だ。闘いに〈美学〉がない。何でも勝てばいいのか。
嫌がらせの電話やFAX、メールを集中させて、脅す。それで、3つの映画館は恐怖にかられて、上映中止した。「我々の勝利だ!」と狂喜している。しかし、こんな汚い手を使って、脅して、それが「勝利」なのか。美しくない。空しくないか。
単なる、嫌がらせ、単なる妨害だ。それなのに「日の丸」の旗や「旭日旗」を持って行く。旗だって迷惑している。「日本人の闘いはこんな卑劣ではなかった。堂々としていた」と嘆いている。「日の丸」が泣いている。その泣き声を私は聞いた。
正しいことなら、1人でやればいい。一千万人といえども我行かんで、闘えばいい。それなのに、数を集め、衆を頼んで、圧力をかけ、恐怖を与えて、上映を阻止しようとする。日本人の闘いではない。左翼の全共闘や全学連の方が、ずっと「日本的」だった。闘いに、「日本的美学」があった。
殴られたから文句を言ってるのではない。あんなことは、いくらでもあった。全共闘と闘った時は、もっともっと酷かった。こっちもやった。でも、それで警察に訴えたことはないし、警察に守ってもらうこともなかった。「殴った。それがどうした」と思っていた。
今の保守市民運動も、「反日分子だから殴った。当然だ」と言ったらいい。それなのに、「やってない。鈴木が勝手に突っ込んで来て、ハンドマイクにぶつかったんだ」と弁解している。見苦しい。こんな連中と闘っていたのかと思うと、自分まで恥ずかしくなる。
40年前、全共闘と闘ったのは、自分の〈誇り〉だ。しかし、最近の闘いは、自分の〈恥〉だ。悔いている。
私も愚かだったと反省している。今まで、どんなに考えの違う人とも、話し合って来た。考えが違い、反対だからこそ、かえって興味を持ち、話を聞きたいと思った。それは「飲み会」の席もあったし、雑誌の「対談」もあったし、テレビの「激論」番組もあった。対決しても、とてもかなわないと思ったことも多かった。しかし、一つも断ったことはない。負けてる方が多いだろう。しかし、その中で、多くの友人・知人を得た。それが私の財産だと思う。
話し合い、対談、対決を拒否したことは一度もない。私の人生の中で、それだけは唯一誇れると思う。「愛国者」と自負したことはないが、それが日本人の美学だと思った。いや、人間として、当然のことだと思った。
「こんな左翼と話せるか」「こんな悪党と対談できるか」と言って、断ったことは一度もない。ましてや、「反日!」「売国奴!」というレッテルを相手に貼って、「逃げた」こともない。逆に、レッテルを貼られて、追い返されたことは多い。対談を拒否されたことも多い。「こんな右翼とは対談できない」「天皇主義者とは同席できない」と、対談、座談会を断られたことは無数にある。心の狭い人だと思った。悲しかった。
昔は、「言論の場」が全くなかった。今もないが、作ろうとは努力している。どんな人とも話し合いたいと思っている。どんなに反対の運動をしている人とも「言論の場」で闘い、そのことによって、彼らの運動を「美しく」しようと思っている。
「いらぬ世話だ!」と言われるかもしれないが、勿体ないだろう。単なる嫌がらせ、妨害と思われては。その「思い」「思想」を伝えられるように努力しようと思った。そして、少しはやれたと思った。
赤軍派や、日本赤軍、連合赤軍、オウムなど、「敵」だった人々と、知り合いになったし、「友人」になった。これは自分の歴史の中で大きかったと思う。「ただ、左翼にすり寄っただけじゃないか」と言う人もいる。まあ、何と言われてもいい。
だから、今回も、必死で努力した。ただ、言っておきたいが、「言論の場」に引きずり出して、騙し討ちにしたことはない。「話し合おう!」と呼びかけると、「鈴木の挑発に乗るな!」と言う。でも、「2時間のうち90%以上をそちらに喋ってもらう」「そちらは何人でもいい。こっちは自分1人でいい」と、あらゆる条件を呑んで、話し合おうとしたがダメだった。
「ニコニコ動画」でも出てくれなかった。ロフトにも出てくれなかった。又、チャンネル桜でも、ダメだった。
今、思い出したことがある。あの頃は、(つまり、全共闘と闘っていた頃は)、「警察に頼らない」と同時に、「政治家に頼らない」がお互いの(というか学生全体の)ルールだったし、「常識」だった。
右翼学生に対しては、公安が訪ねて来て、「左翼の情報を教えてくれ」「顔写真を撮ってくれ」「ビラをくれ」と言って近寄ってきた。でも拒否した。当然だろう。警察は「敵」だ。全共闘は「敵」だが、「学友」でもある。同じ学生を権力に売ることは出来ない。だから、機動隊導入にも反対していた。警官に守ってもらい映画館攻撃をする今の保守市民運動とは違う。
「保守」という言葉なんて、なかったな。いや、恥ずかしくて使えなかった。右も左も、〈革新〉を目指していた。あるいは、右は、もっと古い美しい日本に戻ろうとしたのかもしれない。だから「反動」と言われることはあった。でも、日本がこのままでいいという「保守」には嫌悪した。「保守」と言われる位なら死んだ方がいいと思っていた。
もう一つ、「政治家」だ。これも、今とは全く違う状況だ。学生は政治家に頼らなかった。右も左も。自民党学生部もいたが、皆にバカにされていた。大学を出たら政治家の秘書になり、選挙に出ようと思ってる人間は、「恥知らず」だと思われていた。今は明治維新と同じだ。俺たちが世の中を変えるんだ。政治家なんて邪魔だ。という気概に燃えていた。
左翼だって同じだ。「民青」がバカにされたのは、共産党の下部組織だったからだ。又、社会党を頼る人間もバカにされた。腐敗した「社共」を乗り越えて進むのだと豪語していた。右も左も、政治家には頼らない。政治家を軽蔑していた。自分達学生こそが、「変革の主体」だと思っていた。
「学生運動の時代」が終わってからも、この姿勢は変わらなかった。かつての活動家は、マスコミや労働組合や、市民運動に散っていった。そこでも、「政治家、なにするものぞ」「政治家に頼らない」という気概があった。
たとえば、元気のよかった雑誌、週刊誌、テレビ番組でも、そうだった。『朝日ジャーナル』『現代の眼』『流動』『情況』…と変革的・革新的雑誌のどれもが、在野の思想家・運動家に書かせていた。決して政治家などは出て来ない。
「朝まで生テレビ」や、あるいは、大阪、名古屋でもあった激論番組でも、政治家なんて出なかった。「政治にすり寄るのは邪道」だと思っていたのだ。「権力にすがる」あるいは、「権力に頼ろうとする」ことが「美しくない」と思われていたのだ。これも、「日本的美意識」かもしれない。
「朝生」の初期は、数々のタブーに挑戦していった。「差別問題」「天皇問題」「原発」「右翼」…と。そのどれもが、政治家は出ていない。「政治家に頼るもんか」という気概があった。政治家に頼み、法律を作ってもらい、それで「人民をコントロールする」という発想に、嫌悪感を持っていたのだ。拒否していたのだ。やるのなら、我々の力でやろう、そう思っていたのだ。雑誌も、テレビも、討論番組も、「政治家お断り」だった。
ところがいつからか、どこの番組も、政治家ばかりになった。左の運動もなくなり、右も弱くなったからか、「俺たちが政治を変えるのだ!」という気概を持った人々がいなくなったからだろう。これは悲しむべきことだ。
そして今、人々は、政治家にだけ、頼っている。「政治が変わらないと何も出来ない」と思っている。情けない。そして、「この党こそは」「この人こそは」と空しい夢を見、数ヶ月後には裏切られ。そして、又、新しい「夢」を見ようとする。そんなに政治に頼ることはやめよう。自分で変えることを考えるべきだ。そう思うが、違うだろうか。
我々の国と生活の全てを政治家だけに預けてしまっていいのか。彼らにだけ頼ってていいのか。政治が変わらなければ、何も出来ないのか。そんなことはないはずだ。
40年前、変革に燃える左右の学生達は、誰も政治家なんかに頼らなかった。「オレたちがこの世の中を変える。政治家は後からついて来い!」と思っていた。その気概が今、必要ではないのだろうか。
午後3時、河合塾コスモに行く。4時からの「合同授業」に出るためだ。そしたら、「遅刻ですよ」と言われた。1時から、ゼミを持ってる先生達の会議があったのだ。「メールで通知したのに、知らなかったんですか」「ここ2、3日、忙しくてメールを開いてなかったもんで」と謝った。
4時からは、牧野、大岡、永田といった現代文のカリスマ講師3人による「合同授業」。村上陽一郎の難しい文章について、考える。かなり高度だ。大学だってこんな高度な授業はない。私は一生徒として聞いていた。とても勉強になりました。
「今年の夏休みは、読書しなさい」と大岡先生が、「現代文・小論文のためのブックリスト」を配っていた。有名な作家、評論家の中に、私の『愛国と米国』(平凡社新書)も入っていた。光栄ですね。
この日の新聞を見て驚いた。つかこうへいさんが亡くなった。62才だった。若いのに…。私は好きで、全部読んでいる。芝居も見ている。『蒲田行進曲』『熱海殺人事件』『初級革命講座 飛龍伝』『戦争で死ねなかったお父さんのために』などは何度も読んだ。『飛龍伝』は、私が『がんばれ!新左翼』を書く動機にもなった。又、『熱海殺人事件』は、私が……をやる動機にもなった。
マッドサイエンティストが「サソリ」を料理して来て、皆に食わせた。「これを食べるとEDが治ります」と言っていた。「実は、このあと、本物のサソリが来ます」と私は予告したのに、来なかった。
あとで聞いたら、「当日、行ったけど、余りに人が多くて、怖くなって帰ってきた」と言う。内気でシャイな爆弾魔だ。内気だからこそ爆弾に走るのかもしれない。
東アジア反日武装戦線〈狼〉、〈大地の牙〉、〈さそり〉と、3グループあり、一斉逮捕された時、宇賀神さんは逃げる。何と7年間、逃亡する。その後逮捕され、21年間、獄中だ。凄まじい人生だ。
こんな人の話しは、じっくり聞いて、『紙の爆弾』に連載しようと思っている。とても興味深い話しばっかりだった。逃亡中は、新聞の販売店に勤めたり、農家で働いたりしたという。「働かせてほしい」と言うと、喜んで、疑わずに、働かせてくれたという。「あの当時は人情がありましたね」と言う。でも田舎じゃ、駐在のお巡りさんがよく来たんじゃないの。「皆いい人で、猜疑心がないんです。お巡りさんが自転車の後ろに乗っけてくれて農家に連れてってくれました」。日本人は純朴だったんだ。昔は日本もよかった。学生運動で機動隊に追われて、商店に学生が逃げ込むと、警察に「そんな人は来ていません」と商店の人が匿ってくれたという。
この頃こそ本当の〈日本〉があった。今は、もう、〈日本〉はない。宇賀神さんと話していて、そう思った。ともかく、凄い体験をしてきた人だ。「人間国宝」にしたらいい。国民栄誉賞をあげたらいい。
このあと、近くの居酒屋「土風呂」で、皆で飲みました。驚いたことに「枝豆」の他に、「枝豆キムチ」「枝豆餃子」もあった。凄いですね。ここには日本文化が残っていた。日韓友好もあった。
午後、チャンネル桜で、討論会に呼ばれていた。「映画『ザ・コーヴ』上映と表現の自由を考える」だ。午後2時半から6時まで。3時間半だ。6人のパネリストで、徹底討論する。司会は水島聡さん(日本文化チャンネル桜 代表)。話があった時、「主権回復の西村さんたちにぜひ出てもらいたい」と私は言った。他の5人が全員、「主権回復」の人達でもいい。こっちは1人でも出ます、と言った。「交渉してみます」と言う。
言ってから、「しまった!」と思った。3時間半の長時間バトルだ。徹底的に私はやられるだろう。それに、チャンネル桜は、映画そのものに反対だ。でも、「怖いから出ません」とは言えない。「いいさ、徹底的に論破され、ボコボコにされても」と思っていた。
怖いし、緊張していた。ところが、前日、「一旦、延期します」と言う。選挙直後で忙しいし、人が集まらないという。残念だが、気の弱い私としてはホッとした。しかし、「主権回復」も惜しいことをしたね。チャンネル桜は、いわば「ホーム」だ。そこで、「反日」「ゴキブリ」を徹底的にやっつけて、自分達の正しさを証明出来る。いい機会だったのに…。
夜、阿佐ヶ谷ロフトに行く。千坂恭二、早見慶子両氏のバトル『革命論』。難しい話なのに若者が沢山詰めかけていた。皆、熱くなって、激論している。立ち上がって、詰めより、殴り合い寸前になった人もいる。凄い。自分の主張にこれだけ熱くなり、命を賭けている。偉い。私なんて、とても出来ない。ただ、話がやたら難しくて、無学な私は付いて行けなかった。
⑨7月14日(水)、宇賀神寿一さんにインタビューしました。企業爆破時代の話。逃亡生活の話を聞きました。
「前にテレビで見たデビッド・ジャンセンの『逃亡者』がとても参考になった」と言ってました。そういうものですかね。そして、21年の獄中生活の話も聞きました。とても興味深い、刺激的な話でした。近いうちに、『紙の爆弾』で発表します。
⑪『アエラ』(7月19日号)です。ツルシ・カズヒコさんの『SPA! 黄金伝説』(朝日新聞出版)を私が書評しました。凄い本です。とんでもなく面白い本です。日本出版史上に残ります。
〈玉砕覚悟で突撃した
天才編集者の軌跡〉
と見出しには出ています。この本の出版を祝って、当時の「SPA!」の激動の時代を語ろうと思います。8月あたり、ロフトでやりたいと思います。決まったらお知らせします。
⑫映画「氷雪の門=樺太・1945年・夏」が7月17日(土)より公開されます。
〈終戦時の樺太で起きた電話交換手と9人の乙女の悲劇。空前のスケールで描かれた平和の願いが、今、よみがえる〉
と書かれています。上は自決した9人の乙女(映画のシーン)です。下には、5人の人の推薦のコメントが書かれています。有田芳生、白石美帆、立川直樹、笹幸恵…さん達だ。
この映画はソ連の圧力でずっと公開できなかったものです。今こそ、見てほしいし、歴史の真実を直視してほしいと思います。
「推薦コメント」を見てたら、こんなのがあった。
〈戦争は最大の悪だ。
こんなにも優しく、責任感の強い人たちから真っ先に死んでゆく。
そして後には我々のようなダメな人間だけが残る。
時を戻してくれ!
死ぬべきは我々の方だったのだ〉
悲壮です。自虐的です。誰が書いたのでしょうか。
⑬7月25日(日)、午後2時、名古屋の集会に出ます。「この国の自立と正義」をテーマに、三井環、植垣康博、そして私です。会場は七ツ寺共同スタジオです。
私の紹介がいいですね。
「格闘家としての、合気道三段。(いわゆる富木流)。合気道から柔道に進み、柔道も三段。
「富木流」なんて、詳しいてすね。それに、計六段か。強そうですね。でも弱いし、役に立ちません。アマチュア右翼に殴られてるし、犬や猫にも負けてます。
⑭朝日新聞の夕刊で、「人・脈・記」を連載しています。「毒に愛嬌あり」で、佐高信さんが取り上げられています。第4回(7月16日・金)には、私もコメントしています。見出しにある、「その蛮勇、ただただ敬服」は私の言葉なんですね。凄い人です。あれだけ、偉い人を斬りまくって怖くないんでしょうか。抗議や嫌がらせもあるだろうに。でも、佐高さんは本心は優しい人だ。弱い立場の人は絶対に標的にしない。それに、東北人のシャイな愛が内心にはあるんですよ、という話をした。