もう800年も前の人なんですね。道元さんは。でも今も、生きている。大きな影響を与え続けている。最近亡くなった2人の作家も、道元に影響を受け、道元にこだわり、道元の本を書いている。2人の作家は私も親しくさせてもらった。だから、道元を思うと、この2人のことが想起される。
1人は立松和平さんだ。最後の著作は『道元禅師』だった。この本の前に、歌舞伎の脚本『道元の月』を書いた。この歌舞伎を見に行った時に、バッタリ、立松さんに会って驚いた。原作者なんだから、始まる前に、特別に見れるのだと思った。ところが、「それは嫌なんです。客席で一般の人と見て、観客の反応も知りたい」と言う。脚本は書いたが、自分の手を離れて、あとは役者のものだから、その〈世界〉を自らも1人の観客として見たいのだ。とも言っていた。
立松さんは、早大では学生運動で暴れ、作家になってからは『遠雷』『春雷』という傑作を書き、かなり艶っぽい部分もあった。「高級ポルノ小説ですね」と私は失礼なことも言った。「いやー、そういう所もあるかな」と本人は笑っていた。その後は、テレビに出て、超忙しくなった。日本の自然をルポし、「これも感動です」というフレーズは有名になった。でも、これでは作家としてはダメになるという焦燥感もあったのだろう。連合赤軍事件をテーマにした『光の雨』を書き始める。しかし、連赤関係者から「盗作した」と言われ、謝罪し、全てを廃棄。一からやり直して書く。登場人物も仮名にし、フィクションにする。それが映画化される。その苦難の体験は大きかったと思う。
そんな苦闘の中で仏教に惹かれるものがあったのか。「いや、テレビで自然のルポをやっていた時から宗教への関心はあった」と言う人もいる。特に北海道の知床などの大自然で、人知を超えたものを感じ、宗教的なものを感じたのかもしれない。あるいは、人生の「黄昏」をどこかで予知し、それが宗教へ向かわせたのか。逆に、宗教への関心が、立松さんをより「いい人」にし、涅槃に近い状態に作り変えていったのか。
『道元禅師』の出版記念会の時は、「いや、元々、仏教や道元に関心があったんです」と立松さんは言っていた。「ただ、じっくり向き合い書く場がなかった」と言っていた。でも、『春雷』『遠雷』のような、悩みながらも、生と性を謳歌するような元気溌剌とした小説も書いてほしい、と思った。
立松さんにとって、『道元禅師』は、人間としての究極の姿だったのか。完成型だったのか。
もう1人、道元にこだわった作家だ。井上ひさしさんだ。井上さんには厖大な作品群がある。300冊以上だ。「全巻読破」しようと思っているが、いくら読んでも、まだまだある。多分、半分も読んでないだろう。書店には余り出てないが、『道元の冒険』(新潮文庫)という本がある。面白い。道元を信じる人にとってはムッとするかもしれないが、これは特異な道元論だ。ちょっとない。筒井康隆がイエス・キリストの生涯を書いていた。あれを思い出した。『ジーザス・クライスト・トリックスター』だ。「山上の垂訓」に集まった人々に「JCカード」を配る。今日から、あなたがたは「JCカード」の会員ですよ、と。「JC(ジーザス・クライスト)カード」なのだ。又、キリストは、「私はクリスチャンの第一号だ」と叫ぶ。クリスチャンとはキリスト教信者のことだ。だから、これは言える。…と、そんなことを憶えている。もう一度、読み返してみよう。
『道元の冒険』は、もっと真面目だが、でも、とんでもない話だ。なんせ、800年の時空を超えて、話は往復して展開し、爆発するのだから。生真面目な道元を書いた生真面目な立松和平さん。思い切ってギャグにして、とんでもない道元を書いた、ギャグ作家の大家・井上ひさしさん。この2人の作風、生き方、死に方を暗示するような作品だと思う。
『道元の冒険』の紹介をする前に、まずは、道元の説明だ。今、手元にある『辞林21』(三省堂)から見てみよう。
〈どうげん【道元】(1200〜1253)鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。号は希玄(きげん)。諡号(しごう)承陽大師。久我道親の子。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。1223年入栄、44年越前に大仏寺(のちの永平寺)を開創。著『正法眼蔵』『永平清規』など〉
では、その『道元の冒険』だ。今、手元にある新潮文庫は昭和51年4月発行になっている。でも、その前は単行本で出てるはずだ。と思ったら、ちゃんと書いてある。
〈この作品集は昭和46年8月、新潮社より刊行された同名の単行本より二編を収録した〉
昭和46年というと、1971年だ。今から40年前だ。三島事件の翌年だ。単行本になる前に、どこかの雑誌に発表したのかもしれない。そうすると、三島事件の直後くらいか。そして、連合赤軍事件(1972年)、連続企業爆破事件(1974年)の前だ。そんな〈激動の時代〉に、この突飛な小説は書かれた。その小説の要点だ。
800年前、道元さんが説教をしている。多くの人々を前にして、法を説く。心清く、ストイックに生きている。多くの人々に慕われている。崇められている。しかし、道元さん、夜が怖い。変な夢ばかり見る。何と、自分が犯罪者になった夢だ。法難で国家に捕まったのではない。性犯罪だ。「姦淫の罪」を犯したのだ。それも、何度も何度も…。連続レイプ犯になった夢だ。
道元は昼は、人々に法を説く。「聖なる」坊さんだ。そして夜は、連続レイプ犯という「性なる」犯罪者だ。でも、これだけの話ではない。これだけなら、ありうる話かもしれない。道元は、世の諸々の罪人の過ちをわが身に引き受ける。だから、こんな汚らわしいレイプ犯の罪も引き受け、夢に見るのだろう。
ところが、時代は飛んで800年後の(つまり、今の)日本だ。1人の性犯罪者が捕まっている。悪辣なレイプ犯だ。改悛の余地はない。精神病院に送られ、ロボトミー手術をされようとしている。この男が毎夜、夢を見る。多くの人々を前にして自分が説法をしている。自分でも知らない、難しい、有難い言葉が、次から次と、口をついて出る。人々は皆、涙を流して自分の話を聞いている。これは一体、どうしたことだ。しかし、朝になって、夢から覚めると、又、牢獄の中だ。いや、精神病院の中だ。自分は性犯罪者だ。
つまり、2人は1人なのだ。800年の遙かなる年月を越えて、〈一体〉なのだ。新潮文庫の表紙では、こう紹介している。
〈お互いの夢の中の存在である禁欲の仏教者道元と現代の色情狂患者。夢の二重構造をみごとに劇化しつつ、日本の精神風土を痛烈に笑いとばした表題作〉
この小説には、難しい仏教用語も多用されている。道元の史実もキチンと踏まえている。それでいて、思い切って、突飛な〈笑い〉にしている。この新潮文庫の「解説」で飯沢匡は、こう書いている。
〈道元が悩み、中国に至り新しい宗教的開眼を得て日本に帰り迫害と戦いながら曹洞宗を築いてゆく主筋というか—それも、ちゃんと展開しているのだ。だが、それが現代の精神病院とない交ぜになり狂人も道元の夢を見、道元も未来の狂人の夢を見、どっちが主体なのか判らないところが面白い〉
あとは是非、本作品を読んでもらいたい。こんなに面白くて、そして井上ひさしさんの代表作なのに、なぜか書店にはない。絶版なのか。でも、ネットの古書店ならすぐに買えるので、買ってみたらいい。奇想天外だが、でも、教えられることが多い。考えさせられる。
井上ひさしさんは『荘子』からヒントを得たのかもしれない。男がいて、仕事中にうたた寝をする。夢の中で自分は蝶々になっている。あっ、「蝶々になった夢を見たのか」と思う。
しかし、…と思う。もしかしたら、今の方が夢かもしれない。自分は本当は蝶々で、「今、人間になってる夢を見てるのかもしれない」…と。深い話だ。私たちだって、長い長い宇宙の歴史の中で、ちょっとの間、「人間になった夢」を見てるのかもしれない。こんなことを考えるのも、元オウムの上祐さんに会ったからかもしれない。元々あった私の中の〈宗教性〉が目覚めたのかもれしない。だって、「右翼」になる以前に、「生長の家」だったし、ミッションスクール出身なんだから。
もう一つ、ヒントになった(と私が思っている)話がある。「王様と奴隷」だ。ヨーロッパの話だ。昼は栄耀栄華の生活をしている王様がいる。でも夜は、毎晩、悪夢にうなされている。何と、奴隷になって過酷な労働をさせられ、ムチ打たれているのだ。王の傍に奴隷がいる。昼は苦しい労働だ。でも夜は、楽しい夢を見る。王様になって、好き勝手なことをしている。一体、どっちの生活がいいんだろう…。
難しいね。1日の半分が夢なら、これも又、「現実」になる。じゃ、王が奴隷を捕まえ、殺したらいいのか。奴隷の「夜の夢」を知り戻す。でも、荒療治で狂ってしまい、「昼も夜も奴隷」になるかもしれない。大変だ。
じゃ、王様は寝なければいいんだ。あるいは佐藤優さんのように1日3時間しか寝ないとか。そうすると奴隷の時間は少なくなる。
昔、難しい本を読み、難しい文章を書いてた時がある。私がですよ。その時、バシュラールの本に夢について書いてあった。「昼が狂うのは、夜が狂うからだ」と。昼は地上に咲いた花だ。夜は、地中にある根っこだ。地中が豊かで、栄養があれば、きれいな花は咲く。地中に石ばかりで土もなく、水もなかったら、花は枯れる。人間もそうだ。夜、不安で眠れない。悪夢にうなされる。それは、土も水もない地中に根を張るようなものだ。花は枯れる。昼の異常を正したければ、夜を正常にすればいい。なるほどと思った。毎日、ぐっすり眠り、いい夢を見ている人は、昼も正常だ。狂わない。性犯罪者や思想犯罪者にはならない。そういうことだろう。
今回、写真を探した。立松和平さんに『道元禅師』出版記念会で会った時の写真があった。2007年11月22日だ。井上ひさしさんも何回も会ってるはずだ。前にドイツ文化会館で会った時の写真を載せた。それ以外にもあるはずだ。探した。あった。データを見たら、「01年9月2日」と書かれている。あれっ、9年前かよ。それにしても、何の時だろう。年表を見た。あっ、そうか。例の「日比谷野音事件」の時か。あの時は、私も激怒して、絶叫したんだよな。このHPのヘッダの写真を見てほしい。私が絶叫している。これが、「日比谷野音事件」の時ですよ。それと月刊「創」に「言論の覚悟」を連載しているが、そのタイトルの下にも、この時の「怒れる邦男君」の写真が使われている。でも、何で怒ったのか。又、何でその席で井上ひさしさんに会ったのか。さて?何だったろう。
そうだ。「創」のタイトル写真になってる位だから、その事件は、「創」に載ってるだろう。パソコンで調べてみて、分かった。「創」の2001年11月号に載っていた。その時は、まだ、「鈴木邦男主義」というタイトルだった。タイトルの写真も、もの憂げな横顔だ。村上恵治さんの写真だ。ところが、この「日比谷野音事件」以降、「鈴木邦男主義」になり、今の写真が使われたようだ。おっ、この01年11月号には、この時の有名な写真も出ている。何と、「卑怯者どもに怒りを爆発させた」と写真説明が出ている。撮影・丸山條治さんと出ている。この号のタイトルは「卑怯者」だ。随分と激しい文章だ。読み直して驚いた。
01年9月2日、日比谷野外音楽堂で、「個人情報保護法案をぶっ飛ばせ!2001人集会」の時だ。2000人を集めようとした。実際、集まったし、超満員だった。それと「2001年」をかけて、「2001人集会」なんだろう。作家・文化人が大挙して出た。皆、この法案に反対だ。井上ひさしさんも、田中康夫さんも、佐高信さんも、辛淑玉さんも、森達也さんも、ともかく日本の言論界の主だった人が皆来た。そして、20分位ずつ、各コーナーがあって、次から次と出て発言する。そこで井上ひさしさんに会った。井上さんは早く来て早く帰った。こっちは、出番が後だが、早くから行ってたので、会ったのだ。久しぶりに井上さんに会った。いや、ちゃんと会うのは初めてかもしれない。昔、井上さんに「不敬だ!」「許せん!」といって脅迫電話をかけたことがある。でも、逆に論破された。その過去があったので、会うなり、謝罪した。「あれは鈴木さんでしたか」と笑って許してくれた。
それから、いろんな所で会った。書いた本は全部送った。「鈴木さんはもう右翼じゃないですよ」「立ち位置がいいですね」と言ってくれた。私の本は全部読んでくれた。特に『愛国者は信用できるか』と『愛国の昭和』を誉めてくれた。「書評を書こうと思ってます」と言ってくれた。ありがたかった。是非、対談かインタビューさせてほしかった。「急ぐことはないや」と思っていた。井上さんは元気だし、忙しい。そう思っていたのに、亡くなってしまった。残念だ。
井上さんが帰られて、それから、何人も何人も登壇し、やっと我々のコーナーになった。日比谷野音の話だ。そしたら、始まらない。会場がひどい騒ぎだ。「何故、宮崎学が来ないんだ!」「スパイめ!」と叫んでいる。この数週間前に、「宮崎学は中核派の情報を公安に流していた」「オウムの件で、公安と取引をした」という噂が流れ、週刊誌にも出た。ヘルメットの革マルが1000人、鉄パイプを持って粉砕に来るという情報も流れた。宮崎さんは「来て話す」と言ってたのに、主催者側は「いや、来ると騒ぎが大きくなるから来ないで下さい」と言った。後半の我々のコーナーに宮崎さんは出るはずだった。ところが来ない。前の方にいたヘルメット、覆面の部隊が騒ぎ出した。「なぜ宮崎は来ないんだ。卑怯者!」と叫んでいる。「主催者の中にスパイがいるんだ。それをどう考えているんだ、自己批判しろ!」と連中は言う。宮崎さんは「主催者側」なんだ。
大変な騒ぎだった。主催者側もパネラーも皆、青くなり、「もう中止しましょう」と言う。「そうだ。帰ろう帰ろう」とパネラーは立ち上がる。そこで私は、カーッとなった。マイクを握って、ヘルメットの諸君に怒鳴った。
「逃げた宮崎を卑怯だというが、ヘルメットと覆面の君らも卑怯だ。他人を攻撃するなら顔を出して正々堂々とやれ!臆病者め!弱虫め!」と。
しかし、騒ぎは大きくなる一方だ。「まずいですよ。挑発しちゃ」と主催者は止める。「ウルセー!」と振り払った。
「責任者は1人出てこい。そして言いたいことを言え。話し合いが嫌なら肉体言語だ。決闘だ。上がってこい。一対一で堂々と勝負しよう!」と言った。凄いですね。破れかぶれだ。でも、決闘にはならなかった。
代表者を1人上げて、思う存分喋らせた。そして主催者側も話し、各パネラーも話しをした。怒号と混乱の中だったが、何とか、集会は終わった。
そんな、「歴史的な事件」だったんですよ。この「日比谷野音事件」は。その歴史的01「9・2」に井上ひさしさんと会って、写真を撮ったんですよ。
この時の日比谷騒乱事件については、「創」01年11月号に載ってるし、そのうち、まとまって単行本になるかもしれない。又、DVDになってどっかから発売されているそうだ。ネットで探してみたらいい。動画サイトにもあるだろう。「ザ・コーヴ」の時も、日比谷野音事件のように論戦の場に持って行こうとしたんだ。でも、ダメだったな。
②井上ひさしさんと。01年9月2日。日比谷野外音楽堂の控え室で。「個人情報保護法案をぶっ飛ばせ!2001人集会」の時です。この日が、井上さんとの運命的な出会いの日になりました。井上さんは今年、4月9日に亡くなりました。75才でした。
⑤7月25日(日)「この国の自立と正義」。名古屋市大須の七ツ寺共同スタジオで午後2時より行われました。普段は芝居などをやってる会場です。150人以上も集まって、超満員。立ち見でした。壇上にもお客さんに上がってもらいました。
主催は、もくもく舎の生方さん。「15年前にも、鈴木さんを呼びました」という。記憶にない。その時は、「わっぱの会」だった。そうか。「わっぱ(手錠)」か。逮捕歴のある新左翼の集まりか。「違います」と言う。「こわっぱ」というように、「わっぱ」は子供だし童だ。「童心を失わずに頑張ろう」ということだ。それと、障害者と健常者が一つの輪になって、共に働こうと印刷やパン屋をやっている。そこまで聞いて思い出した。確かに、15年前に来たよ。それが今は「もくもく舎」か。皆、ヘビースモーカーだからか。「いえ、黙々と働くからです」と言う。真面目な人達だ。お世話になりました。
⑨元連合赤軍兵士の植垣さんが携帯の「待ち伏せ」を見せてくれました。「待ち伏せして襲撃するのはもうやめたんです。これは待ち受けですよ」と注意された。息子の龍一君(4才)の写真が10枚以上入ってる。「龍一が自分で撮って、自分で入れるんですよ」と言ってました。4才で、こんなことが出来るのか。凄いなー。大きくなったら、お父さんのあとを継いで、立派な連赤兵士だ。
今年は「出所12年」「スナック・バロン開店10年」を記念して静岡で集まりをやりたいと言ってました。
⑩衆議院議員の河野太郎さんと。7月26日(月)、ロフトプラスワン。堀江貴文、河野太郎、ひろゆきのトーク、「本当に自民党は立ち直れるのか?」を聞きに行きました。河野一郎、河野洋平、河野太郎と三代の野人政治家の流れに興味があり、行きました。河野さんと、いろんな話しをしました。
⑬この日、グリーンピース・ジャパンの事務局長、星川淳さんも聞きに来てました。9月3日(金)に、ここでグリーンピースの「鯨肉裁判」をめぐるトークをやります。その下見に来たようです。9月3日は、私も出ます。