これは快挙だ。なかなか出来る事ではない。内田樹(たつる)さんは偉いね。そう思いました。この暑苦しい熱帯日本で、唯一の「爽やかなニュース」ですよ。
産経新聞(8月30日・月)の朝刊を見て驚いた。
〈売れっ子刊行ラッシュに自ら待った。
内田樹さん「スト」賛否〉
と出ていた。リード部分を紹介しよう。
〈「日本辺境論」などのベストセラーで知られる仏文学者で神戸女学院大教授の内田樹さんが、ブログ上で一部の自著の刊行にストップかけることを宣言し、波紋が広がっている。旬の書き手に群がり、出版点数を増やす「バブル」を生み出しては、すぐにはじける。出版界のそんな“悪弊”を批判する行動だが、書き手たちの賛否は割れている〉
これは凄い決断ですよ。出版界の悪弊を破砕する〈革命〉ですよ。それも、自らが犠牲になって、それを決行する。まさに「自己否定」です。やはり、学生運動出身者は違う。と私は思いましたね。若い時に、権力と闘ってきた人たちは、どこか違う。芯がある。志がある。政治家でも、弁護士でも、大学教授でも、経営者でも、作家でも…。かつて学生運動をした人は違う。早い話、そうした学生運動出身者によって、この日本は、かろうじて守られ、支えられているのだ。
他の人たちと、何が違うか。イザという時、損得を度外視して、〈志に殉じる〉覚悟があるということだ。だって考えてみたらいい。当時、集会に参加し、ストをやりデモに参加し、それで何の得(とく)になったか。そんなことは考えない。学校の単位を落とすかもしれない。留年になるかもしれない。退学、除籍になるかもしれない。(実際、多くの学生はそうなった)。それでも、学生運動をやったんだ。
そんな、「夢」や「無謀さ」があったのだ。それから何十年か経ち、フッと思い出すことがあるのだ。金にはならない。いや、かえって自分には損だ。せっかく売れっ子になってるのに、それに「待った」をかける。どんどん収入があるのに、それを「いらない」と言う。自己否定だ。自己否定による、革命だ。それに、内田さんは合気道を長くやっていた。師範だ。その合気道の「さばき」である。出版界の悪弊をさばき、投げ飛ばす。学生運動と合気道のなせるわざだ。
産経の記事を続ける。
〈発端は大手書店の店長が書いた8月12日付のブログだ。「伝える力」が100万部を突破したジャーナリスト・池上彰さんらの「バブル」に触れ、人気の著者に依頼が殺到する結果、質の落ちた本が出回って著者も疲弊していくとして、その悪循環を批判した〉
これは「タブーへの挑戦」だ。だって本屋は、何でもいいから本が売れればいい。と思われていた。それなのに、「質の落ちた本」が出回っては著者もダメになるし、読者もダメになるし、書店もダメになると言ったのだ。こんなことを言った書店主はいない。きっとこの人も学生運動出身者なんだろう。
たとえ、自分の首を絞めることになっても、「出版の危機」を声を大にして言う。叫ぶ。シュプレヒコールをする。偉い人ですよ。この志のある書店主に対し、「イギなーし!」とまず声を上げたのが内田樹さんですよ。
〈十数点の出版企画を抱える売れっ子の内田さんはすぐに反応した。13日付のブログに「大量の企画が同時進行しているのは、編集者たちの「泣き落とし」と「コネ圧力」に屈したためである。(略)
「バブルのバルブ」を止めることができるのは、書き手だけ」などと記し、4冊分の校正刷りの確認を“塩漬け”にすると宣言。14日付で「日程がタイトであれば、書きもののクオリティは、あらわに下がる」と理由を説明した〉
校正刷りの本をストップしたという。4冊も。その出版社はたまらない。「引き受けておきながら無責任だ」「契約違反だ」と激怒するだろう。もっとも、日本の出版社には、本を出す前に契約書は交わさない。出来てから、印税、部数などの数字について契約書を交わす。出す前は、「あの講演を本にしたいですね」「うーん、どうかな」「ともかく、ゲラを出しますから見てから考えて下さいよ」といった会話の中で、出版作業は進んでいくケースが多いのだ。
「でも、ゲラまで出したんだ」と強く迫る出版社には、ひたすら謝る。あるいは違約金を支払う。あるいは、これを出したら出版社が入るであろう金の半分を払う。…といった出費、犠牲を覚悟してるのだろう。イザという場合には…。それだけの決意を以て、自己否定をやろうとしてるのだ。内田さんは大したものだ。
あるいは、これからは仕事の依頼が来ないかもしれない。最悪の場合、そこまで考え、覚悟しての「決断」だ。いくら人気作家とはいえ、出来ることではない。だって、他のベストセラー作家たちは、内田さんに続こうとしない。怖いのだ。産経ではこう出ている。
〈一方、店長に「バブル」を指摘された脳科学者の茂木健一郎さんは自身のブログで変わらず執筆を続ける姿勢を強調。経済評論家の勝間和代さんもブログで「当事者がコントロールできるものではない」と、内田さんとは対照的な考えを示すなど、反響が広がっている〉
「当事者がコントロールできるものではない」という勝間さんのコメントは、情けない。やろとう思えば、出来るのだ。他にも斉藤孝や、あの人やこの人や、一杯いる。一時間、講演し、それだけで1冊の本にしてる人もいる。これなら月に何冊でも出せる。小説の世界なら、こんな形で「粗製濫造」されたら、読者はすぐに離れる。小説の読者の方が、目が肥えてるのだ。
ところが、「評論」の世界は、同じことを何十冊も書いて出しても、読む人がいる。出版社が違い、タイトルが違えば、内容はほとんど同じでも売れる。又、そうした「ビッグネーム」しか売れないし、出版社もそこに群がる。
全く同じ内容の本が、何冊も出ている。「これはおかしいんじゃないの」と私はある出版社の人に聞いたことがある。でも、「内容は全く同じでもいいんです。売れますから」と。これじゃ、出版社のポリシーがない。「でも、無名の人が一生懸命に書いたからといって売れないでしょう。それよりはビッグネームが、同じことを喋って本にした方が売れる。その方がありがたい」。
ウーンと、唸りましたね。
私らの学生時代は「新書」は3つしかなかった。岩波新書、中公新書、講談社現代新書。だから、「これらを全て読もう」と思った学生はいた。少なくとも、「岩波新書は全巻読破しよう」という志を持った学生は多くいた。私もそうだ。だから、当時の新書は、権威もあったし、内容もあった。必ず、書き下ろしだったし、連載をまとめたものはない。対談や、喋ったものもない。今の新書と比べたら10倍、20倍の内容の濃さだ。
ところが今は、「新書」は、40以上出ている。毎月、100冊以上出ている。とても、「全巻読破」の意欲は湧かない。喋ったものや、連載をまとめたものも多い。講演そのままをテープ起こししたものもある。中には、誰かが、代わって書いたものもある。
極論をいうと、新しい本なんて出す必要があるのだろうか。少なくとも、これだけの新しい本を毎日、毎日、出す必然性があるのだろうか。「昔の本」を読んでいたら、それで十分ではないのか。もう、偉大な思想家も偉大な哲学者も出尽くした。その〈古典〉だけを読んでたらいいだろう。そうも言いたくなる。でも、出版社は〈自らの生死〉をかけて、本を出すしかない。たとえ、本当に売りたい本はなくても、つまらないと思っても、〈売れ筋〉のライターに頼る。
〈騒動の背景には、不況化で加速する新刊ラッシュがある。書籍と雑誌の販売金額は昨年、21年ぶりに2兆円を割り込み、返品率は4割を超えた。売り上げの減少を補うため、出版社は自転車操業的に点数を増やしており、昨年の新刊は過去最多の7万8555点。頭数をそろえるため、引き出しが豊富で部数が見込めるビッグネームに拍車がかかる〉
これは驚きだ。本は売れない。出版不況だといいながら、本は溢れている。昨年の新刊は「過去最多」だという。クレージーな話だ。たとえば、各出版社は、新書だけで毎月4点から6点くらい出す。その中でたった1冊でも売れてくれればいい。その1冊を売るために、あとはダミーだ。いや、それによって、「売れないけど志のある本も出している」と自己満足できるのかもしれない。
「週刊読書人」で上野昂志さんと「全集」について対談したが、今、そうした「思想全集」を出そうというところはない。それらの1冊1冊について、いろんな人が「読み解く」形で出したらいいのに。世界思想、日本思想の偉大な本は放っておき、今の軽薄な「ニュース解説」だけをやっている。これでは余りにつまらないだろう。
思い出した。小説を読む人の方が目は肥えてる。という話だ。先日、新宿紀伊国屋に行ったら、梁石日(ヤンソギル)さんと、バッタリ会った。『めぐりくる春』(金曜日)や『終わりなき始まり』(朝日新聞社)、『冬の陽炎』、『夜の河を渡れ』などを読んだ。文がいい。凄い。1行たりとも、1字たりとも、なおざりにしない。1字1字に命を込めている。そんな感じがする。『終わりなき始まり』を読むと、詩を書いてたという。それが原点になっているのか。言葉を大切にする。これは教えられた。よし、梁石日を全部読んでみようと思った。「全部で100冊位ですか」と本人に聞いたら、「いや、とても、そんなにないですよ」と言う。じゃ、50冊位か。「いや、20冊位でしょう」と、謙虚に言う。もっとあると思うが。ともかく、読んでみよう。平岡正明は『梁石日は世界文学である』という本を書いている。平岡にそこまで絶讃されたんだ。全巻読破する価値はあるだろう。読破したら、高木尋士氏とこのHPで対談しよう。
大作家の「全集」も、今までかなり読んだ。しかし、「全集」を読むと失望することがある。明らかに「手抜き」と思われるものもある。手紙や、書評、対談、軽いエッセーなど「全て」が入ってるから、どうしても、「これはなー」と思うものもある。趣味で作った短歌や、子供時代に書いた作文まで入っているものもある。
その点、三島由紀夫は一切、「手抜き」がない。エッセーや、アンケートの文や、本の推薦文にいたるまで、皆、全力で書いている。これは驚くべきことだ。
「松本清張も全巻読む必要があるのかな」と最近思っている。『昭和史発掘』などは、自分が本を書く上でも、とても学び、参考になったものだ。又、推理小説も厖大にある。とても「全巻」なんて読めないよな、と思っていた。そんな時に、面白い「選集」を発見して、よし、まずはこれから読破してみようと取りかかった。
「松本清張傑作選」(全6巻・新潮社)だ。6人の作家が、清張作品の中から、自分の好きなものを選んで1冊にし、解説を書く。これは面白い企画だと思った。読みやすいし、「おっ、この人はこの作品を選ぶのか」と興味も湧く。それで「全6巻」を読破した。1冊ごとのテーマもあり、タイトルもついている。
これは面白いまとめ方だと思った。鉄道ファンの原武史には、「時刻表を殺意が走る」として、鉄道、旅行ものを集めさせるし。海堂尊にはドクターものだ。昔読んだ作品も、こうして分類されると再び、楽しく読める。いろんな斬り口で「選集」「全集」も出来る。やはり清張は偉大だな、と思った。
ところが問題は[5]の宮部みゆきだ。驚いた。えっ、こんなものがあったのかと思った。12作品が入っているが、明らかに、「似た作品」が多いのだ。大人になって、自分の子供時代のことを懐かしんで、故郷に子供を連れていきたいと思う男。又、子供時代に犯罪をおかした父親。その設定が、同じのが多い。たとえば、作品の8割位は同じで、最後の2割を変えてる。そんな作品がいくつもある。
ある作品を書いて、何年か経ち、「うーん、あれは未熟だったな。じゃ、後半をこう変えてみよう」と思い、それを書く。「習作」と「その修正作」を同時に1冊の本に載せる。これって、アリかな、と思う。前の「習作」はボツにして、あとの「完成品」だけを残せばいいのに、と思う。これじゃ、「粗製濫造」と言われてしまう。
そういえば、この大作家には、いろんな噂があった。「口述」だとか、ひどいのになると、他の人が書いてるのではないか。とか。それに赤を入れているだけだとか。それはないと思うが、「口述」はあったろう。しかし、清張文学は、皆、完成されたものだと思っていた。しかし、宮部の本を読んで、こんな「習作」「未完成品」も多かったのかと驚いた。又、こういう形で、「似た作品」を1冊の本に入れる宮部も怖いと思った。
だって、普通なら気付かないよ。文庫本をいくつか読んでいて、「あっ、似た話があったな」と思っても、「昔、同じ本を読んだんだろう」と思う。ところが、8割は同じで、ラストの2割をちっと変えただけの作品がいくつもあったなんて。思ってもみないよ。
まあ、絵画ならいいよ。横山大観の富士山だって、ルノアールの山の絵だって。同じ対象を、時間が経って、又、見つめ直して描くというのも。でも、清張は、前の本を下敷きにして、そのまま生かして、ちょっと変えてる。いいのかな、と思う。そして、「下敷き」も「完成品」も、両方とも作品として出ている。だから、宮部はそれを並べてみせた。
「巨匠といわれる人だってこんな手抜きがあるんだよ。それに比べたら今の私たちの方が、必死に書いてますよ」と言わんばかりじゃないか。そう思う私も悪意なのか。
三島由紀夫は、ある文学全集の選考委員をやっていた。そこに出版社は松本清張を入れようとした。三島は反対した。「日本文学」としては認められないと言ったのだ。「これを入れるなら私は選考委員を降りる」と言った。有名な話だ。三島も酷いよな。入れてやればいいのに。と私は思った。
この話は有名だから、当の清張の耳にも届いた。きっと恨んだことだろう。でも、それでもいいと三島は思った。では何故、清張を嫌ったのか。「探偵小説など文学ではない」と思ったのか、あるいは「大衆小説」と思ったのか。あるいは清張が「左」だったからか。
ある文学者は、「清張の顔が嫌いだったのでしょう。三島の美意識に合わない」と言う人もいた。まさかと思ったが、その文学者は、「これは本当です」と力説していた。
でも、宮部みゆきオリジナルセレクションを読んで、「謎」が解けた。こうした粗製濫造主義が三島には耐えられなかったのだ。もう、これは〈文学〉ではないと思ったのだろう。私の「謎」解きは、多分、当たっていると思う。
それに、小説の中だけならいいが、戦後の事件について、多くを書いてきた。当時は面白かったが、今となっては、「それはないよな」と思われる本も多い。自分は「探偵小説」だけじゃないと、清張は「社会派」を目指したのだろうが、今となっては、「外れた推理」も多い。
さて、内田樹だ。かつて学生運動をやり、合気道をやり、志のある作家だ。三島も読み、清張も読んでいるだろう。今の人気に溺れ、気にそまないものも、全て本にされたらたまらない。と思ったのだろう。清張にはなりたくない。三島になりたいと。私は勝手に推測する。又、自らの自己否定によって、今の危機的な出版状況を革命しようと思ったのだろう。これは〈義挙〉である。
産経新聞には、ラストで永江朗がこう書いている。これが〈総論〉だ。
〈早稲田大学院の永江朗教授(出版文化論)は、「安価で手軽な編集ができる新書ブームがあった10年ほど前を境に、メガヒットした書き手に安易に依頼する傾向が加速した。対談や講演のテープ起こしただけの安直な作りの本が増えれば、読者離れを早め、出版文化の先細りを招くだけ。業界は今回の事件を真摯に受け止めるべきだ」と警鐘を鳴らしている〉
②内田樹さんのベストセラー『日本辺境論』(新潮新書)です。「新書大賞2010年、第1位」で、本の帯にはこう書かれています。
〈日本人とは何ものか?
これ以降、私たち日本人論は、
本書抜きでは語られないだろう〉
③9月1日(水)。『ザ・コーヴ』のリック・オバリーさんに会いました。「日本での上映のために闘ってくれてありがとう」と言われました。オバリーさんは、かつてはイルカとテレビのショーに出ていた。これは、イルカを虐待することだったと反省し、その後は「イルカ解放運動」をやっている。〈自己否定〉から始まった謙虚な運動だ。
私もかつては、暴力的な、非合法運動をやっていた。その〈自己否定〉から新しい民族主義運動を始めた。「じゃ、以前は真っ黒い車に乗って怒鳴っていたんですか?」とオバリーさん。「そうです」と私。いろんな事を話しました。「鈴木さんは心がとてもオープンですね」。そうですかね。「心はパラシュートと同じです。開かなければ意味がありません」。ほう、いいことを言いますね。感動しました。
渋谷エクセルホテル東急6階ブラネッツルームで行われました。〈リック・オバリー氏の来日特別レセプション。「イルカと共存できる平和を願って」〉
④この会でオバリーさんに指名され、私も挨拶しました。終わって、握手しました。ヨーロッパ、アメリカ、カナダなどから、多くの人々が来てました。世界中から集めた170万人の署名を持って、9月2日に、水産庁とアメリカ大使館に行くそうです。
⑦河合塾コスモの阿蘇敏文先生のお別れの会で。8月28日(土)午後2時。阿蘇先生は、「農園ゼミ」を担当し、生徒に最も慕われていた先生です。キリスト教の牧師さんでもありました。いろんな社会運動もやってました。隣室で、先生の写真展も行われてました。女子生徒に接吻されてる写真もありました。
この日、コスモの講師を代表し、私が挨拶をさせられました。 私は生徒には、全く慕われてないし、無視されてます。私が指名されたのは、生徒に愛された阿蘇先生と最も対照的な講師だからでしょう。
⑩9月19日(日)午後2時より「西宮ゼミ」をやります。西宮市戸田町5の31の「カフェインティ・ライミ」(喫茶店)です。飛松五男さん(元刑事)も来てくれます。参加希望者は岩井まで連絡して下さい。080(5702)8405です。
⑪「アエラ」(9月6日号)です。岡井敏『原爆は日本人には使っていいな』(早稲田出版)の書評を書きました。ルーズベルトとチャーチルによる「ハイドバーグ覚書」について書いてます。怖い本です。怖い歴史です。しかし、真実です。ぜひ、読んでみて下さい。
⑫今発売中の『文芸春秋 SPECIAL』(季刊秋号)です。特集「60年代の青春」に私も書いてます。1960年は高校2年生でした。その時の話を書きました。山口二矢の事件と、私の〈決起〉について。そして、「マグマの芽生え」について…。その頃の写真も載せてます。
⑬一水会の機関紙「レコンキスタ」(9月号)です。「世界愛国者の集い」特集号です。12ページです。これで1部500円です。安いです。年間6千円です。創刊以来35年。ずっと定価は変わりません。とても内容が充実しています。私も連載しております。
ネットで見て、定期購読してみたらどうでしょうか。日本だけでなく、世界の民族主義運動や主張・思想が分かります。一水会の電話は、03(3364)0109。FAXは03(3365)7130です。
⑭『遺魂(ゆいこん)=三島由紀夫と野村秋介の軌跡』(無双舎・1800円)は、9月29日(水)、全国書店で発売です。320ページの大著です。その後、ロフトでトークをやる予定です。
〈三島に「取り遺された者たち」への哀惜がせつない〉と、宮崎学氏が帯に書いてくれました。いろんな角度から、三島、野村の行動、思想について迫ります。私の本の中では、最も時間をかけ、最も苦労して書いた本です。