『中洲通信』との出会いは「竹中労特集号」だった。その前から知っていたのかもしれないが、強烈に印象に残ったのはこの号だ。
毎月出している。大きな書店にもある。でも、発行者は博多・中洲の飲み屋のママさんだという。それも毎月、厖大な赤字を出しながら発行してるという。
飲み屋さんは博多では有名で、流行っている。じゃ、そこで稼いで、「文化事業」をやっているのか。思想戦争なのだろうか。でも、地方から、よく、これだけの文化を発信し続けられるものだ。
それに、毎月、毎月、刺激的だ。挑発的だ。東京に編集部を置き、優秀な編集マンたちが作っているようだ。
「竹中労特集号」(1998年3月号)の時は、私は1人の読者として、この本に驚いていただけだ。その後、縁があって、何回か取材された。
「三島由紀夫特集号」(2000年12月号)では、巻頭インタビューに私が出ている。さらに「戦う男・特集号」(2005年12月号)では、森達也氏、斉藤貴男氏と共に「戦う男」3人が取り上げられている。平成の「三匹の侍」だ。
これだけ見ても、この雑誌の凄さが分かるだろう。
この思想的・挑発的な雑誌が30年続いた。そして一旦、休刊だ。ともかく、「30年はやろう」と初めからの計画だったようだ。これからどうなるのか。
10月5日(火)に帝国ホテル「孔雀の間」で開かれた『中洲通信』30周年記念パーティでは、今までのバックナンバーがズラリと展示されている。そして、30年間の〈総集版〉が、この日、配られた。じゃ、復刊するかもしれない。そんな希望を抱かせた。ぜひやってほしい。
この日は、『中洲通信』発行人の藤堂和子さんの『親子三代ママ稼業』(河出書房新社)の出版も兼ねたパーティだった。
「博多の店なんだからパーティは博多でやればいいのに。見栄を張って、帝国ホテルで…」と(ミニコンサートをやった)松山千春さんが言って、皆を笑わせていた。でも、東京でやる理由があるんだ。
『中洲通信』は発行人兼編集人が藤堂和子さん。発行はリンドバーグとなっている。あの世界的に有名な飛行士だ。ニューヨークからパリまで史上初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功した人だ。『翼よ、あれがパリの灯だ』という著書もあり、映画にもなった。日本にも来た。随分と昔の人だと思っていたが、生きていたのか。そして雑誌の発行人になっている。
と思ったら違う。とっくの昔に死んでいる。1902—1974年の人だ。でも、三島事件の時は生きていたんだ。ともかく、この「リンドバーグ」というのはお店の名前だ。
藤堂さんは、その他にも3店ほどお店を持ってるそうだ。私は行ったことがないので分からない。博多には何回か行ってるが、誰も連れてってくれなかったのだ。
その藤堂さんの店には、全国からお客さんが来る。会社の出張や、マスコミ関係者が仕事で行ったときなどに、必ず寄るのが藤堂さんのお店だ。新著のタイトルにもあるように、藤堂和子さんは3代目のママだ。おばあさん、お母さん、そして本人だ。2代目のママさんが竹中労さんや父親の竹中英太郎さん(画家)と懇意だった。労さんがよく来ていた頃、和子さんはまだ中学生だったという。
じゃ、竹中親子が藤堂親子を思想的に教えたのだろう。いや、逆かもしれないな。しかし、10月5日、帝国ホテルに集まった1500人は、別に三島や竹中の信奉者ではない。そんな思想的な共同体ではない。むしろ、「お酒の共同体」だ。
『中洲通信』だって、30年の間、普段は音楽や本や、芝居など、文化的なテーマを取り上げている。むしろ、三島、竹中などは例外的なのかもしれない。ただ、私の記憶・印象の仲では、その例外的な〈思想特集号〉だけが強烈に残っているのだ。
そんな事を考えてボーッとしていたら、1人のご婦人に声をかけられた。知らない人だ。
でも、「竹中労の妹です」と言う。信じられなかった。竹中さんは19年前に亡くなっている。僕よりも随分と上のはずだ。「娘」なら分かるが、「妹」さんがいたなんて。
実は、労さんとは14才も離れていて、「だから鈴木さんとはほとんど同じです」と言う。今、山梨で「竹中英太郎記念館」をやっているという。じゃ、行ってみなくっちゃ。そして、労さんのことも、もっと教えてもらわなくちゃ。
でも労さんは何才だったんだろう。パソコンで調べてみた。ウィキペディアだ。1930年5月30日生まれだ。じゃ今、生きてたら80才か。亡くなったのは1991年5月19日だ。じゃ、61才で亡くなったのか。若かったね。「ルポライター」の元祖だ。『ルポライター事始』(日本ジャーナリスト専門学校)という著書もある。アナーキストだ。『大杉栄』(現代書館)などを書いている。「反骨のルポライター」だったし、喧嘩早かった。
しかし、若者たちの面倒はよくみていたし、毎月、浅草の木馬亭で、いろんなゲストを呼んで話をし、終わってからは、朝まで若者と飲んでいた。よく、パーティも開いていた。
私は、そこで、竹中さんに、いろんな人を紹介された。それで「左翼人脈」がグンと拡がった。中山千夏、矢崎泰久、千代丸健二、山根二郎、遠藤誠…などだ。手塚治虫さんにも会わせてもらった。
竹中さんの本を通し、大杉栄を再評価した。又、里見岸雄の魅力を教えてくれたのも竹中さんだ。
里見は右翼思想家だ。国柱会の田中智学の三男だ。『国体に対する疑惑』『天皇とプロレタリア』などの挑発的なタイトルの本もある。しかし、右翼の人たちは、ほとんど読んでない。一般の人は名前も知らない。
竹中さんに里見のことを聞き、一水会の『レコンキスタ』で載せた。他にも竹中さんにはいろんな事を教えてもらった。『竹中労の右翼との対話』(現代評論社)にそれは出ている。又、『法を裁く=日弁連山根処分・抗議運動の記録(編著)』(耕索社・1980年11月)にも、私や阿部勉、花房東洋氏など右翼青年の「支援の発言」が載っている。
そうすると、1980年頃から知り合ったのか。いや待てよ。竹中さんの作った映画を見て、そこの集会で衝撃を受けたのだ。ネットで検索したら、1976年の「アジア懺悔行」という映画だった。
1970年が三島事件。1974年に私は会社を辞め、1975年に『腹腹時計と〈狼〉』を書く。その頃、知り合ったのだ。笠原正敏氏が誘ってくれた。今は豊島区で飲み屋をやっている。笠原氏は当時、新聞輸送のバイトをしていて、一緒に働いていた宮城氏が竹中さんに心酔していて、「映画と講演」の集会に誘われた。私も行った。
多分、そこで私は竹中労さんに初めて会った。大杉栄の言葉を引いて、「今や左右を弁別すべからざる状況だ」と言った。又、「天皇制」で考えが対立していても、このアジアを考える姿勢が同じならば〈共闘〉できるという。その言葉に興味を持って何度か集会に行くようになった。
今、ウィキペディアで竹中労さんの略歴を見ていた。〈父は竹中英太郎。妹の金子紫は「竹中英太郎記念館」館長〉と出ていた。パーティの時、会った人だ。
竹中労さんは、1930年生まれ。甲府中学で校長退陣を求めてストライキを指揮する。県庁へのデモ行進、学校占拠を続け、校長が辞意を表明するに至るも、退学勧告を受ける。と出ている。凄いね。中学の時から反骨の少年だったんだ。
1947年、日本共産党に入党。その後、山谷や横浜に住み込み肉体労働に従事する。各地で労働組合活動に取り組み、何度も逮捕される。まだ17の時じゃないか。凄いですね。1952年に甲府刑務所に収監される。共産党からは党員資格を剥奪される。まだ22才だよ。共産党の活動は過激に、思い切りやって、そして「卒業」してしまった。
その後は、「世界革命」を目指し、アジア各地、キューバ、韓国、パレスチナなどをたびたび訪れる。
1969年、沖縄に渡り、琉球独立を支援する。そして、ルポライターとして、政治から芸能ものまで書きまくり、大活躍する。1990年、「平成名物TVイカ天」の審査員をつとめる。
その前には、「全日本歌謡選手権」で審査員をしていた。これで見たことがある人もいるだろう。これは五木ひろし、八代亜紀らを輩出した勝ち抜き形式の歌謡番組だ。
喧嘩早くて、新宿コマ劇場のイベントでは、武闘派として畏敬された浜田幸一と殴り合いの喧嘩をした。これは見てみたかったな。
又、有名な話だが、『週刊読売』の「エライ人を斬る」で佐藤寛子(佐藤栄作夫人)を強烈に批判し、連載は中止。しかし裁判では勝利している。晩年、「イカ天」の審査員をつとめてた頃、出演したバンド「たま」を高く評価し、「たま」についての本まで執筆している。
EXテレビに出演した時は、「たま」は「現代のビートルズだ」と語った。この「たま」の本の出版祝いには私も行った。右翼の人たちも何人も来ていた。「なんだ、猫の本かよ」と皆、言っていた。「猫の名前じゃなくて、バンドの名前なんですよ」
と私は説明してやった。
労さんがライターになったキッカケは『女性自身』だ。そこで書き始めた。芸能ネタは得意で、厖大な記事を書いたという。
「また、芸能人、皇族、死者などの『手記』を大量に創作(代作)していたという」
これも驚きだ。「皇族」の手記も代作したのか。読んでみたい。死者の文もか。「生前、書いていたものが発見されました」とか言って書いたのだろうか。
映画の制作は10本以上。『アジア懺悔行』だけでなく、いろんな映画の製作や脚本。そして原作、出演をしている。
大作『戒厳令の夜』(五木寛之原作、山下耕作監督)ではプロデュース、脚本担当している。又、筒井康隆原作、内藤誠監督の「俗物図鑑」では、出演している。今度、探してみよう。著作は100冊以上ある。私が好きな本は、こんなところだ。
『琉球共和国』のサブタイトルの「汝、花を武器とせよ」は、いい言葉だと思った。前民主党参院議員の喜納昌吉さん(ミュージシャン)は今回は選挙に負けたが、沖縄ではカリスマ的人気がある。竹中さんにかなり影響を受けている。選挙の時は、「すべての武器を楽器に!」と言っていた。
竹中さんの影響だ。喜納さんとは私は昔からの付き合いだ。今度、ゆっくり竹中さんの話を聞いてみたい。その前に、竹中さんの妹さんに話を聞かなくちゃ。それと、『中洲通信』の藤堂和子さんにも…。
10月5日の帝国ホテルのパーティの挨拶文には、「発起人一同」がこう書いている。
〈私たちの友人、藤堂和子さんがその決意通り、三十年間刊行し続けてこられました雑誌『中洲通信』は、一定の役割を終え、この1月、2010年をもって一時休刊されました。巷間、それを惜しむ声は途絶える事はありません。一地方都市の名もない雑誌に各界の著名人を登場させ注目を浴び、一方、『中洲通信』によって育てられた文筆家、写真家、ルポライターなど多数輩出されてこられました〉
そうか、この雑誌で多くのライターも育て、輩出したんだ。たいしたものだ。
藤堂和子さんは、本業の「リンドバーグ」を引き継いで以来、多くの事業を成し遂げ、今年でちょうど40年だそうだ。
「ワンダフルばあちゃん」こと祖母のマツさん、母のアヤさん、そして和子さんの三代の道は『親子三代ママ稼業』(河出書房新社)から出版されている。
このパーティの次の日、10月6日(水)の夜は、その河出書房新社で、森達也さん、斉藤貴男さんと私の3人で対談をした。来年3月に文庫本になる『言論統制列島』の追加鼎談のためだ。
『中洲通信』(2005年12月号)では、奇しくも、この3人は「戦う男」として、特集されている。私は、「イメージを超えて」というタイトルだ。じゃ、3月に出る文庫本は、この「戦う男」の続きだ。そうだ。「文庫本にする時は、タイトルを変えようと思いますが」と編集者は言っていた。
「言論統制」というよりも今は、「言論自主規制列島」だ。じゃ、それにしようか。いや、『戦う男—PART2』でいいんじゃないのかな。
①この号が「全て」の始まりでしたね。『中洲通信』(1998年3月号)の竹中労特集号だ。
〈元祖ルポライター・竹中労の軌跡。無頼のゆめ〉
これで竹中労の全てが分かる。藤堂和子さんは、中学1年の時、初めて労さんと会う。和子さんのお母さんが竹中英太郎、労さんと懇意だった。「労さん、私は元気ですよ」と巻頭に和子さんが書いている。労さんのブックガイド、無頼の事件簿、年表、対談など盛り沢山。これは、まとめて単行本にしたらいいのに。勿体ない。
この特集号で、私は『中洲通信』を知った。ともかく凄い雑誌だと思った。
②『中洲通信』の30周年記念パーティで。編集発行人の藤堂和子さんと。中洲の「リンドバーグ」のママさんだ。実は私は初対面でした。
でも、この10月5日のパーティ、1500人も集まり、全く進めない。身動きが出来ない。遠くの壇上では和子ママが挨拶してるが、近寄れない。10時近くになって、パーティが終わってから、やっと会えた。手には「戦う男」の特集号を持っています。
④作家の志茂田景樹さんと。いつもド派手な格好をしている。でも内心は案外、シャイなのだ。「三島由紀夫が好きで、意識している」と言う。そういえば、志茂田さんの作品には、それを気づかせる小説がいくつかある。
⑧この巻頭インタビューです。私でした。「“三島由紀夫の死”というアンビバレンス」。なかなか真面目に、哲学的な話をしています。他に、「『憂国』に聞く」「三島由紀夫とレコード」「三島遺骨事件の謎」「俳優としての三島由紀夫」「三島が自決して書店街のてんやわんや」…など、力の入った特集号です。
⑨30年間の『中洲通信』が壁一面に貼られてました。壮観です。下のテーブルには実物が。竹中、三島特集号は売り切れで、なかったです。「自由に持っていって下さい」とのことでした。姜尚中さんが表紙の号が、すぐなくなりました。
⑩『中洲通信』2005年12月号です。〈戦う男〉特集号でした。森達也、斉藤貴男、鈴木邦男の3人が〈戦う男〉です。かろうじて残ってたので、一部もらってきました。3人に各々、長時間インタビューしています。森さんは「テンイヤーズ・日本人の10年間」。斉藤さんは、「野球選手、キックボクサー、そしてジャーナリスト」。私は「イメージを超えて」。
⑪そして5年後、現在の〈戦う男〉です。パーティの翌日、10月6日(水)、千駄ヶ谷の河出書房新社です。3人の鼎談『言論統制列島』(2005年・講談社)が河出文庫になります。来年3月。そのために追加鼎談です。
追加鼎談が終わって、会社の隣のバーで飲んだときの写真です。対談の参考資料を見たら、3人の「この5年間の著書」がリストアップされてました。私は12冊。こんなに出したのか。対談本を含めたら、20冊位です。1年に3冊位、出してたのか。凄いですね。
でも森さん、斉藤さんはその3倍位です。森さんなんて、毎月のように本を出してます。「映画も撮って下さいよ!」と私は言いました。「どうもチームワークが苦手で。本当は監督なんて向いてないんだよ」と言ってました。
⑫三匹の〈戦う男〉鼎談は夜遅くまで続きました。帰って朝まで原稿を書きました。北朝鮮に行くまで仕上げなくちゃならん原稿が沢山あるし…。
そして鼎談の翌日10月7日(木)は午前10時半から週刊金曜日で対談です。すんません。こんな時間しか空いてなかったのです。能川元一さん(神戸学院大学講師)と、最近の言論状況について話しました。とても勉強になりました。
⑬対談が終わって、「週刊金曜日」の白井記者が紹介してくれました。マスコミや、いろんなブログで話題騒然の「美人すぎる記者」です。確かに美人です。ポーッとなってしまい、「あの噂の白岩記者ですか」「失礼な。赤岩です。勝手に白井を載せないで下さい」と言われました。いかんな、ちゃんと名前を覚えておかにゃ。
西宮ゼミの時も、「岩田さん」と呼んで岩井さんに叱られたし。「吉野家さん」と呼んで吉本さんに文句を言われました。「牛丼と違う!」と。で、飛松さんと対談中、「国松さん」なんて言っちゃうし。いかんな、ちゃんとメモに書いてから発言しましょう。
⑭今、発売中の中川右介さんの本です。『昭和45年11月25日=三島由紀夫自決。日本が受けた衝撃』(幻冬舎新書)です。よく調べてます。大変な苦労をして書いたと思います。「その日」何を考え、衝撃を受け、どう行動したのかが、書かれています。政治家、文学者、アーチスト…など。その中に見沢知廉氏もいます。ついでに私も。これは必読の書です。
著者の中川右介氏とは11月1日(月)の阿佐ヶ谷ロフト。11月15日(日)の新宿ジュンク堂でトークします。